ヴィクトル

ICU/ 南米育ち/ based in Tokyo.

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最近の記事

カズオ・イシグロ氏の文学講義について

ある種の作家は小説よりもエッセイや文学論の方が面白いということがあります。村上春樹さんもそう。『騎士団長殺し』よりは『職業としての小説家』の方がはるかに人生の滋養となりました。 カズオ・イシグロ氏もスリリングな文学論を展開します。ノーベル賞を取る前です。必ずしも彼の作品が私に響くわけではありませんが、英語の表現力にかけてはアメリカ文学が到達できない寓話やメタファーがあると思います。そこにはどこか日本の出自が影響したらしい諦観を垣間見られます。イギリス文学の伝統に東洋的な諦観

    • ジュゼッペ・デ・サンティス監督『苦い米』評

      戦後イタリアの映画人は荒廃したローマやミラノでファシズムと向き合ったはずだ。1940年代半ばから1950年代の後半にかけてのイタリア映画はネオリアリズモと呼ばれる。民衆の生活を映し出す現実感覚のためにしばしばプロの役者を使わなかった。この時期のイタリア映画は傑作ばかりだ。ロベルト・ロッセリーニ監督、フェデリコ・フェリーニ監督、ルキノ・ビスコンティ監督といった名監督達はネオリアリズモから出発した。後に彼らのカメラが全てスタジオ撮影に戻り、完成していくのは不思議である。 『にが

      • 山田洋次監督『隠し剣 鬼の爪』

        アメリカ人の知人に聞いたこと事がある。刀というものは異様な恐怖を伴うと。特に首切りや切腹が日常的だったとは野蛮としか言いようがないと。あなたたちは未だに拳銃を持ち歩き、撃ち合うではないかという質問には、それは防衛と家族を守るためであり、争いの手段ではないと言う。ましてや死ぬ道具ではないと。武士道という死生観の理解に苦しむ知人が印象的であった。 『隠し剣 鬼の爪』は、侍と人間との矛盾に直面する幕末の下級武士を描く。人を斬るくらいなら侍を辞め、好きな人と添いとげることを選ぶ。尊

        • カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

          Kazuo Ishiguro “Never Let Me Go”. (カズオ・イシグロ. 『わたしを離さないで』)。 人生は使命だとする主人公たちの怒りの欠如にとまどう。私たちは多くの場合、貧困や不正義に対る怒りを原点とするからだ。 それでもこの作品のテーマは明確なもの。「やり直しが簡単にできない短さだから、愛する人と一緒には生きられなくとも、せめて自ら失うという愚行を犯してはならない」。 題名のNever let me goは、to die alo

        カズオ・イシグロ氏の文学講義について

          ウォーラーシュタインの世界資本主義システム論について

          近代市民社会を「中心」とすれば、同時に「辺境」が成立したとウォーラーシュタインは言う。セットで世界資本主義システムと呼ばれる。同時にこれを社会学として植民地社会の変容を扱ったのがポスト・コロニアリズムとなる。 大航海時代の開始は、レコンキスタが終わり、中世ヨーロッパにとって先進文化だったイスラムをイベリア半島から追い出したところから始まる。「コロンブスの航海記」の序文には、カトリックの王たるスペイン国王に忠誠を誓い、イスラム教徒を追い出して、ユダヤ人を追放して、カトリックを

          ウォーラーシュタインの世界資本主義システム論について

          ハンナ・アーレントの思想

          アーレントはあらゆる政治活動を全体主義につながるとして批判する。しかし、それを保守主義として批判するには、彼女の思想は奥が深すぎる。 彼女が見つめていたのは、ナチズムによる暴力的隔離の経験の中であたかも存在しないかのように生きることを余儀なくされている人々、「他者」の存在を欠いている人々であった。 このような人々は今日でもおびただしく存在する。他者による応答の可能性を喪失した生を、彼女は「見捨てられた境遇」と呼ぶ。この境遇に置かれた人々(例えば、途上国の女性や障がい者)に対

          ハンナ・アーレントの思想

          『春香伝』(2000/韓国)評

          2000年/韓国/2時間0分
◇監督:イム・グォンテク ◇製作:イ・テウォン ◇原案「春香歌」唱歌(パンソリ):チョ・サンヒョン ◇脚色:キム・ミョンゴン ◇撮影:チョン・イルソン ◇照明:イ・ミンブ ◇編集:パク・スンドク ◇美術:ミン・オンソク ◇衣装:ポン・ヒョンスク、ホ・ヨン まったく新しい『春香伝』の誕生 
『春香伝』は、韓国の人々の心に永遠に刻み込まれている、18世紀に完成された愛の物語。16歳の美しい娘:春香(チュニャン)と貴族の子息:夢龍(モンニョン)が身分

          『春香伝』(2000/韓国)評

          『忍ぶ川』(熊井啓監督. 1972年)評

          原作は三浦哲郎さんの芥川賞作品。既にカラーワイドが普通の時代に、あえて白黒スタンダードサイズでのフィルム撮影にこだわった意図は、モンタージュされる文章と、海鳥の飛びかう映像との調和であろうか。それとも、後半の津軽の雪の白さを撮るためのものか。いずれにせよ雪の津軽の美しさは、豊田四郎監督の名作『雪国』を越えるだろう。当たり前のことだが、映画は文字ではなく映像と音の芸術である。ロングショットを重ね合わせ、緩やかに女優のクローズアップをのぞかせる、いわば日本映画の伝統にのっとった最

          『忍ぶ川』(熊井啓監督. 1972年)評

          就活生のとき「業界研究」を頑張ったこと

          大学4年の頃、アパレルやメディア以外で内定をもらえそうだったのが商社と物流だった。物流について何の知識もなかったから悩んでいた。物流(流通)とは何か?マーケティングとはどう違うのか?ロジスティクスとは何か?3PL?EDIネットワーク?SCM?本によって一応の概念を覚えておき、今の日本の物流の何が問題なのか考えていた。 ともかく、物流は広い概念だ。港湾管理や道路、鉄道、飛行場が関係するから、国家政策からも影響を受ける。 マーケティングとはしょせん、自分の会社の市場調査と、

          就活生のとき「業界研究」を頑張ったこと

          誤読という孤独

          誤読されている本は多い。とくに名作ほどその傾向にあるのではないか。たとえばカミュの『異邦人』。不条理についての本?あの本のどこに不条理があるのか。ただ自分の感性に正直であった人の物語だ。 文学理論においても、「カノンを崩す」といえば聞こえはいいけれど、理論が先行しすぎていて余計にテクストが雑に扱われている気がしてならない。 たしかに物語には読み手の数だけ答えがある。「これが正しい解釈です」なんて大学受験でおしまい。物語は書かれた瞬間から書き手の意図を離れ、読み手のものとな

          誤読という孤独

          サウルの息子

          『ライフ・イズ・ビューティフル』のようなトンデモ映画がカンヌでグランプリをとりアカデミー外国映画賞をとったことを考えれば、同じ賞を取りながら、ホロコーストの描き方についてヨーロッパ映画の深さを感じさせる秀作だ。ナチズムに関心がある人なら絶対に見るべき作品である。 ただしとても疲れる。カメラはサウルに密着し、移動しながら収容所の中のガス室の遺体処理を見つめる。長くぼんやりとした画面は観るものの神経を逆なでする。この映像の閉塞感が好きか嫌いかと問われれば、私は大嫌いだ。 また

          サウルの息子

          韓国ノワールのゆくえ

          最近の韓国映画にどうも満足できないのは私だけでしょうか。『シュリ』や『殺人の追憶』以降、この15年の韓国ノワールには目を見張るものがあります。個性的な俳優に優れたカメラワーク。ただ、この数年には停滞とマンネリがみえます。殺しは残酷になり、乱闘は派手となり、レイプを扱ったホラー的なものが増えました。 韓国映画が海外を市場としている限り、この路線は続くでしょう。何年も前に朴クネ大統領の弾劾を要求して集まる数十万人のデモを見たとき、あなた方の文化や政治のテーマは何なのかと隣国の私

          韓国ノワールのゆくえ

          鴎外なんて大嫌い

          近代日本文学を読んでいると、声を大にして言いたいことがある。私は、森鴎外が、大嫌いだ。夏目漱石と並ぶ近代文学の「巨人」でありながら、読むに耐える作品は「高瀬舟」「雁」「舞姫」と、ほとんど岩波文庫一冊分しかない。これからめちゃくちゃディスりますので嫌な方はスルーしてください。 『舞姫』なんか鴎外に対する嫌悪感なしには読めない。当時のドイツ留学組の日本人は鴎外に限らず現地妻を持っていたことは有名だが、恋人エリスが鴎外を追いかけて日本に来ても追い返す。しかも(最近の研究では)、そ

          鴎外なんて大嫌い

          『君の名は。」と日本映画の方向性

          『この世界の片隅で』がアニメも好きです。だからこのアニメの100倍以上も評判になった『君の名は。』を観ました。いい映画です。写真のように光輝く画像はまるで夏の東京の再現。美しいアニメでした。 SFとしてのストーリーも繰り返された時空テーマとして良くできています。しかしです。これが日本アニメの方向性なのでしょうか。主人公たちのフィギュアのような長い脚と大きな瞳。強すぎる色彩と光の連続。何度も見たい映像ではないかなと。 動物や虫、風や海の躍動感に対するリアリティはとっくり忘れ

          『君の名は。」と日本映画の方向性

          村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

          『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。村上春樹さんにしては感情的でびっくりした。だからこそ響くものがある。 「人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。…悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。」 村上春樹さんは言葉で人を語ることがどこまで可能なのか確かめたいのだろう。物語で人を語るつもりはなかったのだ。だからこそ彼の頭の中にはそれぞれの色彩を持った具体的な現代人が明確にある。例えばアカで象徴され

          村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

          Out of Africa

          鬱に苦しんでいる人を理解し、心の闇から救い出すことは可能だろうか。すぐ近くにいる者だからこそ、近くにいるがゆえに、傷ついた時には向き合えないものだ。 20世紀の哲学者アーレントは言う。人は傷ついた時に自らの言葉を失ってしまうと。傷ついた心をすんなりと見せてくれたら対処することは簡単かもしれない。しかし、傷ついた人が傷ついたことを明確に自覚できない時、あるいはそれを心の秘密として居直った時、人は人を十分に理解することはできない。その人と1時間でも話せば理解して癒されることは可