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ジュゼッペ・デ・サンティス監督『苦い米』評

戦後イタリアの映画人は荒廃したローマやミラノでファシズムと向き合ったはずだ。1940年代半ばから1950年代の後半にかけてのイタリア映画はネオリアリズモと呼ばれる。民衆の生活を映し出す現実感覚のためにしばしばプロの役者を使わなかった。この時期のイタリア映画は傑作ばかりだ。ロベルト・ロッセリーニ監督、フェデリコ・フェリーニ監督、ルキノ・ビスコンティ監督といった名監督達はネオリアリズモから出発した。後に彼らのカメラが全てスタジオ撮影に戻り、完成していくのは不思議である。

『にがい米』はイタリアのネオリアリズモを代表する作品と言われる。水田の「水張り」で始まり「水切り」で終わる。どこか今井正監督の映像『米』を思わせる。ポー川流域の水田地帯で出稼ぎの女性たちが過酷な労働をたくましく生きる姿がドキュメンタリータッチで描かれる。男女4人(シルヴァーナ・マンガーノ、ドリス・ダウリング、ヴィットリオ・ガスマン、ラフ・ヴァローネ)が絡む愛憎劇もこの映画の重要な核となっている。

何百人もの女性たちが汽車やトラックに乗り込み、水田で働くシーンに目が釘付けになる。彼女たちの発散するエネルギーは何度も戦火を経たイタリア女性のたくましさというより、戦争を担った男たちへの怨念のようにもみえる。当時18歳のシルヴァーナ・マンガーノさんはむせかえるような官能美をみせる。胸の隆起も露わに、太腿をむき出しにして水田に立つカットは有名だという。黒々とした腋毛、肢体をくねらせ男を挑発するダンス、太腿も露わにベッドに横たわっての姿など、監督の陰影の強い白黒映像は1950年代の日本人にとってかなり衝撃的だったに違いない。日活/東映の陳腐なエロ路線に慣れた日本の1970年代でさえこのエロティズムには圧倒されたはずだ。


そのような見方があながち間違いだったとは思わない。このエロティズムを今日の視点に置き換えれば、この映画のフェミニズムな生命力が浮き上がる。日本的な零細農民を描いた今井正監督『米』は限りなく美しく、対立する女たちは孤独に悲しかった。しかし、イタリアで描かれる『にがい米』のエロティズムの奥には連帯(シスターフッド)があった。

シルヴァーナ・マンガーノさんは、この後、ルキノ・ビスコンティ監督の『ベニスに死す』や『家族の肖像』で重厚な貴婦人役を演じる。さらに、パゾリーニ監督でも強烈な女性像を提示する。永遠に輝く俳優であろう。

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