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『春香伝』(2000/韓国)評

2000年/韓国/2時間0分
◇監督:イム・グォンテク ◇製作:イ・テウォン ◇原案「春香歌」唱歌(パンソリ):チョ・サンヒョン ◇脚色:キム・ミョンゴン ◇撮影:チョン・イルソン ◇照明:イ・ミンブ ◇編集:パク・スンドク ◇美術:ミン・オンソク ◇衣装:ポン・ヒョンスク、ホ・ヨン

まったく新しい『春香伝』の誕生

『春香伝』は、韓国の人々の心に永遠に刻み込まれている、18世紀に完成された愛の物語。16歳の美しい娘:春香(チュニャン)と貴族の子息:夢龍(モンニョン)が身分と試練を越えて結ばれるまでを描いた、韓国古典の傑作である。これまで何度も舞台化、映画化が繰り返されてきているが、パンソリによって全編が歌い継がれる『春香伝』は、本作が初めてである。 


イム・グォンテク監督は『春香伝』が本来パンソリによって語られ、作り上げられてきた物語であることに改めて着目した。そのため本作では2人の物語と並行して、観客が実際に舞台上のパンソリ『春香歌』を聴くという演出を凝らしている。その演出によってパンソリと映像が伝えるダイナミズム、エモーションが互いに深く結びつき、膨らみ、観る側はこのシンプルなラブストーリーに一気に引き込まれてしまうのだ。まさに伝統に基づきながらも、極めて斬新な解釈によって、ここに新しい『春香伝』が誕生した。もっとも、「春香伝」は全部演じると8時間に及ぶらしい。映像と融合することでイム・グォンテク監督は2時間の若々しい恋愛映画としている。
 
1994年の『風の丘を越えて/西便制』において、監督はパンソリの旅芸人親子でこの「春香歌」を使い、韓国において伝統芸能の復活を支えただけでなく、韓国映画そのものを変えたと言われている。確かに、『風の丘を越えて』は日本でも単館上映では異例のヒットとなる。どこかギリシャ映画『旅芸人の記録』、日本映画『歌行燈』『はなれ御座おりん』『伊豆の踊子』を思わせる旅芸人の姿がある。『春香伝』は、イム・グォンテク監督が更に伝統を掘り下げた傑作となっている。

なお、中国、朝鮮半島において長く文人、両班(ヤンバン: 支配階級)のステイタスシンボルはロバに乗ることで、馬に乗ることは野暮とされたらしい。日本でこの習慣は無いが、芭蕉の句には旅を象徴するものとしてロバが出てくる。

愛し合う喜び、別離の悲しみ、恋い焦がれる時間の苦しみ。春香の初めての恋が命をかけて貫く愛へと姿を変えていく。春香のひたむきさは、現代にあっても命を懸けるほどの愛の力は存在するのか、有効であるのかどうかを真摯に問いかけてくる。『ロメオとジュリエット』を彷彿させる若く、純粋で、「二夫につかえない」危うい恋でもある。

春香と夢龍を演じる2人は、ともに本作で映画デビューを飾った。従来「春香伝」というとベテランの役者たちを迎えることを売りにするのが通例だが、イム・グォンテク監督はその慣例をここでも覆し、新人を大胆に起用した。威風堂々たるパンソリと並んで、その溢れんばかりの瑞々しさと軽やかさでスクリーンを彩っている。

パンソリと映像がもたらす、圧倒的な調和

大空をめがけて勢い良くブランコを漕ぐ春香と夢龍の出会いのシーンから、夢龍が死迫る春香を救い出すラストの胸をすく大団円まで——躍動感に満ちたパンソリと映像美は驚くほどの調和を保ち、観る者を圧倒する。その撮影を担っているのは、イム・グォンテク監督の名パートナー、チョン・イルソン氏だ。アジアを代表する撮影監督であり、欧米からも高い評価を受ける世界有数の撮影監督である。風格とともに撮り上げられた春夏秋冬の自然、随所に散りばめられた赤の色、そして何よりパンソリのリズムと映像のリズムの一体化が、まさに映画のもつ豊饒さを感じさせずにはおかない。パンソリを歌うのは、人間国宝である名唱チョ・サンヒョン氏。まさに各界の第一人者たちが結集して本作はつくりあげられた。若手を圧倒するであろう円熟した手腕による傑作として、『春香伝』は韓国映画として初めて、2000年度カンヌ国際映画祭コンペティション部門に選ばれている。なお、イム・グォンテク監督は、この2年後に『酔画仙』でカンヌの監督賞を受賞しているが、映画の持つ魅力、伝統文化の高さにおいては圧倒的に『春香伝』がすぐれている。監督の代表作であろう。日本での研究がなされていないのが残念である。
 
 【キャスト&スタッフ】

■イ・ヒョジョン(春香)
歴代、ベテランの女優が演じることの多い春香役に抜擢されたイ・ヒョジョンさんは役柄と同様、若干17歳。本作で映画初出演となった。聡明で気高く、純粋で時に大胆な春香のキャラクターを見事に演じきり、伝説的なヒロイン像に新しい息吹を与えた。撮影中、イム・グォンテク監督の指導の元に完璧な演技をこなした彼女は、スタッフからも拍手を浴びている(その後の俳優作品は記録されていない)。

■チョ・スンウ(夢龍)
イ・ヒョンジョンさんと共に激戦のオーディションの末に選ばれたチョ・ソンウさんもまた、本作が映画デビュー作となる。夢龍のもつ初々しさ、貴族の長子である優美さと勇敢さを堂々とこなした。その後同監督の『下流人生』の主演など、韓国映画、ドラマに欠かせない中堅俳優となっている。

■キム・ソンニョ(月梅)
愛娘である春香への深い愛情と、人生に対する明朗な姿勢、持ち前のコミカルさを併せ持った春香の母親という役柄を見事に演じ、若い役者たちの脇を締め、作品に厚みを与えている。

■キム・ハギョン(房子)
これまで幾度もパンジャ役を演じているベテラン俳優。パンジャは『春香伝』のもうひとつの魅力をユーモラスに、いきいきと引き出している。

■イ・ジョンホン(下学徒)
舞台でも活躍し、その実力を認められている存在で、本作でもその技量を存分に発揮した。暴君、下学徒という役柄は従来では滑稽な要素も持ち合わせているが、今回は理知的な学徒像を演じている。

■イム・グォンテク(監督)
1936年5月2日、金羅南道(チョルラナムド)の長城(チャンソン)生まれ。50年代、映画製作会社に就職、助監督を経て1962年『さらば豆満江よ』で監督デビュー。70年代前半まではアクション、メロドラマ、歴史物、戦争物などあらゆるジャンルの商業映画を撮り続ける。次第に独自のスタイルを確立し、1973年の『雑草』で高い評価を受ける。『族譜』(1978年/NHKで1983年に放映され話題になったという)、『曼陀羅』(1981)、『シバジ』(1986)、『嵐の丘を超えて/西便制』(1993)、『祝祭』(1996)、『春香伝』、『酔画仙』(2002)、カンヌ映画祭監督賞、『下流人生』など、国内外多数の賞を受賞、90年代に入ってからはフランス、ドイツ、アメリカをはじめとする海外で「イム・グォンテク映画祭」も盛んに行われている。また、『嵐の丘を超えて/西便制』は日本公開時に単館公開のアジア映画では異例の大ヒットを記録し、パンソリを広く国内に紹介するきっかけともなった。韓国社会のアイデンティティや韓国文化の本質を描き続け、監督本数は本作で97本目、本国のみならずアジアを代表する映画監督の一人である。

■イ・テウォン(プロデューサー)
泰興(テフン)映画社の社長として長年傑作を生み出し、韓国映画人協会の会長も務めた文字どおり韓国映画界を代表する映画人。イム・グォンテク監督と共にいくつもヒット作、受賞作を手掛けてきた。主な作品に『ハラギャティ』(1989/第28回大鐘賞最優秀作品賞、第16回モスクワ映画祭最優秀主演女優賞)、『将軍の息子』(1990/第11回清龍賞最優秀韓国映画最多興行賞、韓国ギネスブック最多観客動員記録)『風の丘を超えて/西便制』1993/大鐘賞最優秀作品賞、ベルリン映画祭正式出品)など。他、『膝と膝の間』(1984/イ・チャンホ監督)『桑の葉』(1986/イ・ドゥヨン監督・韓国映画評論家賞最優秀作品賞)、『ばら色の人生』(1994/キム・ホンジュン監督)などの作品があげられる。

■チョン・イルソン(撮影監督)
1929年2月19日生まれ。ソウル大学工学部を卒業。アジアが誇る撮影監督であると同時に、スコセッシ監督などの欧米の映画人からもオファーを受けるなど、その評価は世界的に高い。まさに世界で最も知られる撮影監督のひとりである。イム・グォンテク監督とは『曼陀羅』以来のパートナーシップを保ち続けている。その代表作は『霧の村』『将軍の息子』『曼陀羅』『キルソドム』他多数。イ・テウォン社長を加えた3人で「黄金トリオ」と呼ばれるほど、多数の名作、ヒット作を生み出してきた。『風の丘を超えて/西便制』では韓国のアカデミー賞にあたる大鐘賞で7度目の撮影賞を受賞。他多数の映画賞の撮影賞を受賞しつづけている。1993年には文化芸術大統領賞を受賞している。

■チョ・サンヒョン(パンソリ)
1939年、金羅南道(チョルラナムド)、宝城(ポソン)に生まれる。天性の声をもって生まれてきた彼は、13歳でパンソリの名唱の門下に入り、7年間に渡って「春香歌」「鎮清歌」「水宮歌」を歌う。1959年以降は光州(クァンジュ)で学び、1971年にソウルに上京して「興甫歌」を学びつづける。その後国唱文化財の指定を受ける。以降、中央大学院で後続の養成に尽力しながら、活発な活動を展開している。彼の声は力強く、豊かな声量をもち、なめらかで透明感のあるスリ声と呼ばれる唱法を得意としている。名唱としての好条件をすべて兼ね備えた、まさに「現代の名唱」と呼ばれている。

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