就活生のとき「業界研究」を頑張ったこと

大学4年の頃、アパレルやメディア以外で内定をもらえそうだったのが商社と物流だった。物流について何の知識もなかったから悩んでいた。物流(流通)とは何か?マーケティングとはどう違うのか?ロジスティクスとは何か?3PL?EDIネットワーク?SCM?本によって一応の概念を覚えておき、今の日本の物流の何が問題なのか考えていた。
 
ともかく、物流は広い概念だ。港湾管理や道路、鉄道、飛行場が関係するから、国家政策からも影響を受ける。

マーケティングとはしょせん、自分の会社の市場調査と、求められる商品開発である。実は消費者の動向より、広告を通じて自分の商品を売らせる操作の方が多い。だからアパレルのマーケティングなどは、本当の意味での市場調査などしていない。
 
 「物流」とは、日本では学問的にもきちんとした成立はない。当時の私の知る限り、商品の価値は流通では発生しないとされていた。ほとんど流通のことは分析の対象になっていない。
 
「近代経済学」では、生産と消費、需要と供給のバランスで価値(価格)が決まることになるから、ここでも物流は無視される。モノを必要とする人間がいれば、市場はそれを提供することになっている。今は商品がなくとも、時間が経てば必ず商品が現れて、需要は満足されることになる。市場とはそういうものとされている。
 
現実には、そんな経済モデルはあり得ない。実際には、①モノは運ばないといけない(空間論)、②貯蔵しないといけない(時間論)、③それは必ずしも生産者がやってはくれない(近代における生産と消費の分離。前近代では生産者と消費者は基本的に一緒だった)。ようするに物流の世界は相手にされず、単なる技術論だった。

なぜ「物流」は軽視されてきたのか?理念的に考えると、工業化社会もポスト工業化社会も、基本的にはモノは絶えず過剰生産であるということができる。資本主義的生産というのは絶えず過剰に生産することで成り立っているからだ。ゆえに19世紀は10年おきに経済恐慌が起きていた。過剰生産恐慌と言われている。1929年の世界恐慌も、第一次世界大戦の需要と同じ水準でアメリカの「大工場制」が過剰生産を続けたから起きたもの。それが金融恐慌に発展したものだ。
 
資本主義における農産物と工業製品が絶えず過剰であるということは、モノが10%過剰になっても、価格は半分以下となる。いわゆる値崩れだ。世界は人々が必要とする倍ぐらいの製品を作り出してきた。
 
資本主義を原理的に過剰生産であり、本当のところ需要がどのくらいかは、市場が安定するまで分からない。これ(大量生産)をシステムと考えると、消費者にとってモノは必ず手に入れられる。物流や流通は、生産者か市場が考えればよい問題となる。
 
ところが資本主義に特有の過剰生産社会に大きな変化が起こる。
 
一つは経済のグローバル化。そうは言っても、経済のグローバル化は16世紀から4段階ある。①植民地獲得の重商主義時代、三角貿易の時代。②次が資本主義的な19世紀から世界恐慌までの帝国主義時代(自由主義時代と呼ばれる)。③戦後のブレトン・ウッズ体制で1970年代までの、みんな仲良く国民国家の時代。④そして1990年冷戦後の市場原理主義的な30年間の現在。
 
重要なの④の段階だ。各国の事情を無視して、統一基準による世界市場を作った方がもうかるのではないかという先進国連合と、ロシア・中国・インドのような先進国の資本と技術で覇権主義を守りたいところが妥協してできたもの。もちろん、IT技術の進歩は、技術的に世界市場の形成に大きい影響を与える。
 
この経済のグローバル化を政治学的に言うなら、国民国家よりも世界市場の方が上であるということ。経済的には、一次産品を輸入して工業製品を輸出するという体制よりも、工場そのものを輸出してしまうという生産拠点の分散化だ。そして、この資本を作るために株主資本主義が善とされ、誰もが株を買える金融証券システムがアメリカ主導で完成して、2008年(リーマン・ショック)以降は混乱期に突入する。
 
日本から見ると、1960年から1980年頃までの三段階が注目に値する。高度成長期から安定期にかけては、原料輸入も輸出も、基本的には「商社」がやってくれた。何しろ世界中がそれぞれの国内事情を抱えているわけだから、情報を持っている総合商社はドヤ顔ができた。そもそも国内には英語を使って商売できる人材さえいなかった。メーカーは日本国内の熟練労働者をいかに安くこき使うかを考えていれば良かった。
 
日本郵船と三井船舶は海外航路のことだけ。三菱倉庫と三井倉庫は港湾設備のことだけ。JALはドヤ顔。国鉄(現JR)も貨物列車を動かすだけ。日本通運は狭い道路をトラックで申し訳なさそうに走っていたそうだ。トヨタもソニーも新日鉄も、ともかく技術力でモノを作ればよかった時代。そこには物流としての独自性はあまりなかったと言える。
 
ところが、④の段階となったとき、まず「総合商社機能」が削られてくる。中国で生産している日系企業は、直接欧米やアジアに輸出することは自分たちでもやれると気づく。自社の系列に「物流」専門部門を作り、メーカーが自ら輸出入を始める。
 
しかし生産拠点があちこちにあり、日本への機械部品などの輸出を考えると、あまりにも日本は国内/外の物流が整備されていなかった。100の商品があれば、100の流通方法では流通経費が高すぎる。でも船会社は港まで。トラック会社も港まで。JRは貨物駅まで。飛行機会社は飛行場まで。おまけに港湾設備も日本は高い。
 
経済史がご専門の猪木武徳氏によれば、生産拠点が分散化しても日本という巨大な生産拠点は、基本的に変化しないという。「距離の脅威」と言われる理論で、モノは生産と消費が近い方がやはり有利なのだ。それでも生産拠点のアジア進出で、日本の「物流」は20年間に10%は減ったという。やはり日本にとっては、国内外の「物流」を整備して、3PLを目指すしかなかったのだ。中国では国内輸送は商品価格の60%のコストとも言われる。単純労働が安くても、これではメーカーも苦労する。
 
いずれにしろ、経済のグローバル化によるメーカーの海外進出により、日本を拠点とした物流は国内外を一貫したシステムで結ぶ必要に迫れた。
 
また、地球的な規模で石油、木材などの資源の限界性が見えてきたことも重要だ。特に環境問題の発生は、大量生産による大量消費というアメリカ型資本主義の行き詰まりを意味している。生産と消費が連携しないと、限界あるリソースを有効活用できない。生産者はどこに何を持っていくのか。消費者は安全な商品を安く、どこから買うのか。お互いの姿が見えることが必要になってきた。また、「物流」の大動脈機能と共に、静脈機能も大事となってくる。
 
つまり、物流のあり方、流通のあり方を消費者、顧客サイドから見えるようにする必要に迫られている。消費者も有り余る商品のストックの山から自由に選択する時代ではない。
 
さらに、世界的に利潤率が低下していることもあげられる。これは大量生産が行き詰まり、品質で勝負するポスト工業化社会の宿命と言われる。同時に、有限である一次産品のコストが高くなり、途上国でも労賃が高くなる。皆が良い暮らしをしたいのだから当然だ。
 
しかし、逆に先進国では賃金が頭打ちとなるから消費者価格を上げるわけにもいかない。特に日本の場合、優秀な技術はあってもITなどの知的所有権はアメリカに握られている。EUのような地政学的なまとまりも無い。
 
生産コストは下がらない。販売コストは上げられない。結局、流通コストを下げるしかないわけだ。でも、メーカーにとって流通コストというのは、意外に専門家がいないから見えにくいことが着目される。
 
そうした物流機能のコストダウンや改善は、メーカーごとの物流部門では対応できない。船、トラック、列車、飛行機、港湾、倉庫ごとの従来の個別な物流システムの会社でも及ばない。
 
生産部門(荷主)から、運送手配→在庫管理→流通加工(ダンボール箱などによるパッケジングといわれる技術で、途上国では10%の商品がパッケジングが悪いために壊れる。私もアルゼンチンで紙パックから染み出ているジュースをよくみた)→輸送管理(トラックや船の手配)、そして消費者(顧客)。これを一連して行う「物流会社」が求められるのだ。
 
もちろん、そこには貿易実務(税関手続き、植物・動物検疫・保険・信用状手続き)なども入る。個人の小口荷物(宅急便)と農産物や工業製品のコンテナとは違う。

以上が自立した物流会社の存在意義だ。
 
トラックや船などの輸送手段によって社風が違うから、現状ではなかなか整理できないと当時は思った。特に、海上ハブ機能がシンガポールや上海に移り、人件費や日本の地理的な位置で先をこされてしまった。成田空港が不便すぎるなどの理由で 、空港ハブ機能も韓国が有利となっている。
 
逆に、だからこそ、物流・ロジスティクスの職人・専門家が求められている。国家試験もある分野であり、この世界は守りではいけないのだ。

と勉強して意気込んでいた私は、物流系すべてに落ちた。頭でっかちは嫌われる。

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