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カズオ・イシグロ氏の文学講義について

ある種の作家は小説よりもエッセイや文学論の方が面白いということがあります。村上春樹さんもそう。『騎士団長殺し』よりは『職業としての小説家』の方がはるかに人生の滋養となりました。

カズオ・イシグロ氏もスリリングな文学論を展開します。ノーベル賞を取る前です。必ずしも彼の作品が私に響くわけではありませんが、英語の表現力にかけてはアメリカ文学が到達できない寓話やメタファーがあると思います。そこにはどこか日本の出自が影響したらしい諦観を垣間見られます。イギリス文学の伝統に東洋的な諦観のテイストは新鮮なんです。

なぜ人は小説を読み小説を書くのか?なぜこの古い形式がいまなお人を魅了するのか?人は「絶えず嘘をつく。忌まわしい過去を忘れて、好ましい記憶をつなぎ、物語をつくってしまう。」
誰しもが自然にやってしまうことです。悲しさや不快さはしばしば個人だけでなく、世代をも押しぶしてしまう。

「歴史や事実の掘り起こしがどれほどなされようと、人々作った物語は簡単に崩壊しない。大事なことは、忘れられたままで、記憶の中に大切な愛や悲しさや、捨て去れない事実が消されてしまうことです」

人はいつ、どこで、どんな記憶を取り戻せるのか?そのシステムこそ小説の独特な役割でありメタファーの存在様式の意味であります。

フィクション(嘘)でもノンフィクション(歴史)でもできない記憶を取り戻す。この事がイシグロ氏が歴史学者ではなく小説家になった理由ではないでしょうか。

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