『忍ぶ川』(熊井啓監督. 1972年)評

原作は三浦哲郎さんの芥川賞作品。既にカラーワイドが普通の時代に、あえて白黒スタンダードサイズでのフィルム撮影にこだわった意図は、モンタージュされる文章と、海鳥の飛びかう映像との調和であろうか。それとも、後半の津軽の雪の白さを撮るためのものか。いずれにせよ雪の津軽の美しさは、豊田四郎監督の名作『雪国』を越えるだろう。当たり前のことだが、映画は文字ではなく映像と音の芸術である。ロングショットを重ね合わせ、緩やかに女優のクローズアップをのぞかせる、いわば日本映画の伝統にのっとった最後のモンタージュ映像と言える。

青森県学生寮から早稲田に通う哲郎(加藤剛さん)は、姉達の自殺と兄達の失踪が原因で、家族の“呪われた血”と“恥の意識”に囚われ、宿命的なものを感じている。彼にとって死とは、自分が突然死体となって出現するもので、自然に滅び行くものではない。そして自分もそのような運命に引き込まれることを恐れている。

哲郎が、料亭「忍ぶ川」の看板娘、志乃(栗原小巻さん)と出会って物語は展開していく。

夏、東京の深川、州崎を2人で訪れる。志乃は洲崎で「自分は遊郭の射的屋の娘であった」と貧しさ、育ちの卑しさを素直に明かす。栗原小巻さん演ずる志乃は、出会いの場面、洲崎での場面、そして自らの純潔を示す場面で、「明日もお待ちしています」「これが私の全てです」「やるもんですか」と若い女性らしい意地を見せる。栗原小巻さんにしか表現できない可憐さを秘めた演技である。映画では当時の都電、東武浅草線、東北線が効果的に使われ、特に津軽での雪に進む蒸気機関車が美しい。

その夜、哲郎は、素直な志乃と違い卑屈だった自分を恥じて志乃に手紙を書く。兄弟の自殺と出奔、家への恥の意識、家族や自分に流れている暗い血を思うと、生きている事がたまらなく恥ずかしく、誕生日を祝ったことはないと話す。そして、志乃から「今度の誕生日は、私に祝わせて下さい」と返事がある。

哲郎の父母を永田靖さん、滝花久子さんが演じて、何とも言えぬ老夫婦の味を出している。雪深い駅に出迎えて、長靴を差し出すところは、老母の細やかな気遣いを感じさせられる。

結婚初夜のヌードシーンは、上映当時も話題を呼んだという。白黒の映像も優れて清潔感が溢れている。明け方、馬橇(うまぞり)が鈴をならして帰っていくところを2人が見つめる場面は、本映画のクライマックスである。

作曲は松村禎三さん。愛のテーマとも言える三重奏が、ギターで主導され、ヴィブラフォンとハープが続く。この主題はたびたび現れ、主人公の孤独な心情、哀しみ、ささやかな愛の希望を静かに歌い上げる。ラストで2人が雪原の馬橇を見つめるシーンで、フルート、チェンバロ、弦楽器も加わって、瑞々しく主人公たちの愛を歌い上げる。日本映画音楽の中でも屈指の名曲である。

1950年代後半を思わせる浅草寺のほおずき市、深川木場の木材置場、東北の雪景色など季節感を伴ったロケが素晴らしく、モンタージュされる海鳥の舞うシーンがアクセントを与える。栗原小巻さんは顔のクローズアップのシーンが多く、自然で言葉遣いが綺麗である。当初、志乃役には吉永小百合さんが予定されていたとう。だが「初夜」のラブシーンを嫌がり降板となった。しかし思いつめた過剰な演技の目立つ吉永さんでは、抑制のきいた志乃の役柄は難しかったに違いない。
 
主人公が志乃という女性に出会うことにより救済され、抱いていた死にまつわるコンプレックスを消し去って、新たな人生へ向う物語は癒す女、癒される男のメロドラマの構図で観ることもできるだろう。いかにも古い。しかし、最後の5分間の映像、列車の窓から哲郎の実家が見える。それはまた志乃の家でもある。「ねえ、見て、家が見える、私の家が見える!」。
 
それは志乃の育った疎開先、家族が家族として成立できない貧しいお堂の借り住まいと対比する。つまり志乃の家族の再生の物語なのだ。日本映画は長く家族の場所としての家そのものを丁寧に描いてきた。この物語の本当の主人公は志乃でもあったと、美しい雪の映像で終わる。

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