誤読という孤独

誤読されている本は多い。とくに名作ほどその傾向にあるのではないか。たとえばカミュの『異邦人』。不条理についての本?あの本のどこに不条理があるのか。ただ自分の感性に正直であった人の物語だ。

文学理論においても、「カノンを崩す」といえば聞こえはいいけれど、理論が先行しすぎていて余計にテクストが雑に扱われている気がしてならない。

たしかに物語には読み手の数だけ答えがある。「これが正しい解釈です」なんて大学受験でおしまい。物語は書かれた瞬間から書き手の意図を離れ、読み手のものとなる。なら誤読とは、書き手の子どもがどこぞの馬の骨と結婚するようなもの。

『ノルウェイの森』についてもそれがいえる。大学の先生が言っていた。「彼は頑張っているけど、ナルシーなのがだめ」。たしかに…と同時に違和感を持つ。私がジェンダーを専攻していたら絶対に永沢さんに注目する。

「自分に同情するな」
「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」

この台詞に象徴されているように、永沢さんはどうしようもないマッチョな男性だ。大事なことは、永沢さんのその生き方が不幸をまき散らし、パートナーを死に追いやるところ。マッチョな思想は人を幸せにしないと、村上春樹は自覚的に書いている。

これも誤読かもしれない。理解って、一番あたらしい誤解だもの。

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