見出し画像

なんでぼくたちは、読むんだろう?

人はどうして、今ある世界だけじゃだめなんだろう。

日常だけじゃ、満足しないんだろう。

どうして物語を読むんだろう。

もちろん読まない人もいる。

でも読もうとする人もいる。

物語じゃなくてもいい。

詩でもいいし。

絵本でもいい。

小さい頃本を読むことに喜びを

感じられなかった。

その意味が知りたかった。

大人はみんな読まないとだめだって

言い張っていたけれど。

大人になって困るからって

言うけれど。

何が困るんだ?

なんで?

って聞いても教えてくれなかった。

そういうものになっていると。

なんでそんなことを言ってるかというと

少し不慣れな書評を書くという真剣な

ゲームに参加することになって。

わたしはそもそも書評のようなものが

書ける人間じゃなかったのになんで

うっかり参加してしまったんだろうと

作者の方に申し訳ない気持ちになっていた。

そして、そもそもなんで小説や短歌を読むんだ

ろうってことを考えていた。

わたしが小説を読む理由は、幾つか

あるのだけれど。

ひとつは日常社会からの逃避。

逃避したくて読むというよりは、

読んでみたら逃避できた、好き!

ってなることが多い。

例えていえば地軸がぶれるような

そんな体験を小説でしたいのかもしれない。

これはすこしでも、日常を演出したい

という想いに似ている。

部屋をじぶんの好みにリメイクするように

心の拠り所としての小説を幾つか用意して

それを自分のなかで愛でたり時には

育みたいのかもしれない。

昔、小説家の方に君は起承転結が

なっていないと小学生の作文で

やっただろうとちょっとどや顔で

注意を受けたことがある。

だって小説のそれとさ、作文のそれは

ちゃいますよって言ったけど。

小説と作文の起承転結はやはり同じでは

ない。

当たり前だけど、小説の中には登場人物が

いるわけだから。

彼と彼とで彼らでできあがっていると

したならば。

彼の生い立ちや彼の言動から導かれる

起承転結があるんだと思う。

でも人だからバグる。

よく整合性という言葉が使われるけれど。

小説の中でありありと起承転結が

決まってゆくものに魅力を感じない。

もっと混とんをみせてくれよ

とか

もっと矛盾がみたかったんだよ

とか

思ってしまう。

それはなぜなら、現実で起こった

ことではない小説の世界であっても

わたしたちは、それを現実に照らし

合わせてしまう視点で読んでしまうから。

どこかやはり地続きなのだ。

はじまりがあって、

途中があって。

ピリオドが打たれる終わりがある。

そんなことはあまりない。

もっとぐじゃぐじゃの日々。

積み残しの日々。

だから理路整然とした日々は

つまらないと贅沢な物語を望んでしまう。

10あるうちの9個は嘘だけど、

たったひとつのほんとうを、混ぜておく

と、人は信じるものだと聞いたことがある。

それが小説の中のリアルなのかなって

そんなことを思っている。

でも虚構なんだよね。

虚構なのにみんなそこにある種の「真実」を

みつけようとする。

嘘だからなんでもありでよか。

とはならない。

『パムクの文学講義』を読んでいたら

読者であるってなんだろうとか、

作者と読者の蜜月ってどういうものだろうって

思ったりした。

これはこの11月のテーマにしたいなって

マジで思ってます。

書評するってこわかった。

書評とは一対一の読書の至福の時間の

終りを示している。

ましてそれをどこかに発表するって

野ざらしになる無防備さなのだと思う。

そんな蛮勇はわたしにないことを知った。

だから感想だけを書くことに徹したくなった。



読むって まったきひとり 万事解決
いいんじゃん ぼっち上等 ぼっちと生きてゆく


この記事が参加している募集

#自己紹介

230,124件

#私の作品紹介

96,726件

いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊