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ここにいない誰かを想う、もうひとつの時間。#『旅をする木』星野道夫。

たったひとつの風景を思い出す時、
そこに流れているのは、
ゆるぎない風景への信頼だと思う。

風景と共になつかしい人がたち
現われる時も思い出している
その最中は、絶対的にそのひとが
いまも自分の中でいきいきと生
きているという
確信のもとに、かけがえのない
瞬間を思い出している。

写真家の星野道夫さんのエッセイ
『旅をする木』のページを
めくるたびにそんな思いに駆られた。

1978年にアラスカに暮らし始めた
頃のご自分の日記を紐解きなが
らつづられている。
その文章はわたしたち読者を
圧倒的な自然を取り巻く世界に
誘ってくれる。

 フェアバンクスは、新緑の季節も終わり、初夏が
近づいています。
 夕暮れの頃、枯れ枝を集め、家の前で焚火をして
いると、アカリスの声があちこちからきこえてきます。

『旅をする木』「新しい扉」より。

そんな語りからはじまるこの一冊。
自然の営みの大きさに相反するよう
にやさしいまなざしと語り口に、
惹かれてゆく。

あの頃、ぼくの頭の中は確かにアラスカのことで
いっぱいでした。まるで熱病に浮かされたかのよ
うにアラスカへ行くことしか考えていませんでし
た――。

『旅をする木』・「新しい扉」より。



26歳でアラスカに降り立つ
星野青年は、試験の点数が
30点足りないことから
アラスカ大学に入学する道を絶た
れた。

ふつうはそこで諦める。

わたしならすごすごと後ずさってる。

でも彼のアラスカへの熱量は
試験の点数が足りない
ぐらいじゃびくともしなかった。

そこをこじあけたのが、
野生動物学の学長への
直談判だった。

やさしい口調の中には意志の
強さも内包されて
いた。

そして彼のその地を求めて
いるという熱は、
まっすぐ届く。

アラスカという白地図の上に、自分自身の地図を描いて
いかなければならなかった

そんな星野青年の旅が始まる。

これは読者にとっても、
旅の同伴者のような贅沢な
瞬間でもあった。

カヤックで未踏の谷や山を
かき分け、先住民族の方達と
旅を共にしながら、セミクジラを
追い、カリブーの季節移動に
惹かれ壮大な営みを目撃する。

誰もができないそんな旅を
続けることで、彼の白い地
図が写真と共に彩られて
ゆく日々。

季節は、ずれることなく
正しくめぐってゆくアラスカ
では、

開拓時代にやってきた白人
たちの死がいつも触れられる
ぐらいそばにある生活を
垣間見る。

アラスカの海でオーロラの
出現を待っていた時にふと、
不慮の事故で子供を失くした
友人に思いを馳せる時間。

この南海アラスカの海を
彼にみせてあげたいと。





そんな時、ザトウクジラの親仔
がふいに<赤い絶壁の入江>に
紛れこんだ時、星野さんは
こう綴る。

 ここに来るたびに、ぼくは悠長な時間を思います。
人間の日々の営みしばしば忘れさせる、喜びや悲し
みとは関わりのない、もうひとつの大いなる時の流
れです。

『旅をする木』・「赤い絶壁の入江」より。


いつももの静かに綴られるから
こそ、とても深い爪痕をわたし
たちの心に残してくれる
星野さんの文章。

わたしは本書を読みながら、
ここに描かれているのは
かつて流れていたあらゆる
「時間」とこれから訪れる
であろう「時間」への想い
なのだと思った。

とりわけ、好きだった章は
「もうひとつの時間」だった。

空には降るような星が瞬いて
いたある日、彼はアラスカの
氷河の上で友人と野営を
していた。

そんな時彼が話し始める。

泣けてくるような星空を
見ていて、誰か愛する人に
伝えたい時の気持ちって、
写真なのか絵なのか、
やはり言葉なのか…。

どんな手段で伝える? って
友人がある人に聞かれたこと
があったという。

その時その人は、こう答えたらしい。

自分が変わってゆくことだって……その夕陽を見て、感動
して、自分が変わっていくことだと思う

同・「もうひとつの時間」より。


そんな話に耳を傾けた日々を
思い出しながら星野さんが
高校生の時に見たタヒチを
舞台にした映画をきっかけに
遠い憧れの地、北海道の自然に
惹かれ、クマにも好奇心を
抱いたことが語られて
ゆく。

東京で雑踏に紛れている時も、
あの北海道のヒグマたちは
どうしているのだろうと。

ぼくが、東京で暮らしている同じ瞬間に、同じ日本で
ヒグマが日々を生き、呼吸している。

同・「もうひとつの時間」より。

これははじめて
「すべてのものに平等に流れている
時間の不思議」に気づいた
瞬間だったと。

この一冊のページを読み進め
ながらそこには、あらゆる
「時間」への手紙が綴られて
いるのだと感じた。

昔、まどみちおさんの詩に
触れる機会があった。

まどさんの好きな詩を
高校生達が紹介している
番組を見ていて出会った、
『ぼくが ここに』
という詩。


ぼくが ここに いるとき
ほかの どんなものも
ぼくに かさなって
ここに いることは できない

もしも ゾウが ここに いるならば
そのゾウだけ
マメが いるならば
その一つぶの マメだけ
しか ここに いることは できない

ああ このちきゅうの うえでは
こんなに だいじに
まもられているのだ
どんなものが どんなところに
いるときにも

その「いること」こそが
なににも まして
すばらしいこと として

ままどみちお・『ぼくがここに』より。


十代の彼らの声と共に、この
詩の朗読を聞いていると、
まさにかれらがここに
「いること」が、この詩が紡ぐ
せかいそのものに見えてきて、
胸がじんとしていた。

星野道夫さんのこの
『旅をする木』は、
「いること」は
決してあたりまえではなくて、

あなたが、わたしじゃないことも、
ありえないぐらいあたりまえじゃ
ないことなのかもしれないと
伝えている、そんな気がした。

あなたがここに「いること」を、
手繰り寄せたくなるのは、
もうあなたがどこか遠くへと
旅立ってしまったから
かもしれない。

たとえいなくなっても、
「いること」を知るすべはこの
本書『旅をする木』を読むことで
あり。

ほんとうは「いない」なんて
ことは、出会ってしまったら
ありえないと言いたくなる
ような。

それは生身の人間と人間として
出会わなくても、作品世界に
触れるだけだったとしても、
いつでもそこに「いること」
なんだと思う。

星野道夫さんに、わたしは
まぎれもなくこの一冊を通して、
出会ったんだなとその想いを
深くしていた。


 

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