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なにげないジグソーパズルな日常を暮らしてる。

日常って、日の常だけど、日常に飽きたり

日常めんどうくさいって思うことも

しばしばある。

わたしはほとんど能動というより受動態な

スタイルで暮らして来たので、たまに面白い

ことがあっちからやってくるとちょっと、

水を欲していた人のようにかもーんって

なって日々の渇きを潤してくれたなって

思いたくなる。

わたしの住む町では、台風でもないのに

台風のような嵐みたいな風が吹くことが

よくあって。

ある日、大きなバケツのふたがガレージに

飛び込んで来た。

窓ガラスを打つ雨の外を部屋の中から

みていたた、青い大きなふたはじっと風に

耐えながら、コンクリートの側の花壇の

紫蘭の花の長い葉の側から動かなかった。

いつも手入れもしてないのに、毎年咲いてくれてありがとう!

何時間経っても動いていなかった。

台風一過の朝がやってきて、ガレージの掃除に

とりかかっていた。

そこには見慣れないビーサンまで植栽と

といの間に挟まっていた。

足裏が当たる部分は薄い黄色で、親指に

ひっかけるゴムの所は赤いサンダルの

左足のかたっぽだけだった。

みしらぬそれをガレージのポールのところに

たてかけておいた。

バケツのふたと左足だけのビーサン。

どちらも、相方からはぐれてしまったもの

だから、期待はできないけれど、できたら

所有者がちゃんとみつかると気持ちいいなって

思っていた。

よのなかに正しい形なんてあるのかどうなのか

わからないけれど、

おさまりのいい形というのはあるのかなって

思う。

ばらばらのパズルだって、たくさんのピースが

そろっているうちは、それがひとつの形に

おちつく未来をはらんでいるわけで。

でも、ひとつでもなくしてしまったらそれは

永遠の未完成になってしまう。

なにかをなくすと心地悪くて、いつまでも

気になって探してしまう。

さがしてさがしてさがしつかれて、挙句の果てに

すべてはじめからなかったことにしてしまう。

朝のひかりがまぶしくポストにあたっているとき

中腰でガレージを掃いていたら、体操服姿の

中学生らしき男の子が、マスクして会釈しながら

こっちにやってきて、すみませんでしたって

ずんずんとそのポールにちかづいていった。

おはようって声をかけながら、どこの子だっけと

思っていたらその男の子は、はずかしそうに

バケツのふたとビーサンを手にもってもう一度

あやまりの言葉を口にしながら向かいの

マンションへと帰って行った。

ぜんぶあの子の家のものだったんだって思ったら、

軽くほっとした。

バケツのふたも夏の終わりの栞みたいな

ビーサンも落ち着くところへと落ち着いて。

妙にすがすがしい気分。

秋の頃の話だったけど。

今はこんなに寒い冬がやってきている。

季節は流れ、言葉を交わすことのない

近隣のひとたちもいま同じ季節を

生きている。

どんな街でも同じことが起きているに

違いないけれど、妙に感心してしまって。

この日常をわたしはまだ失っていないから

そう思えるのだと。

もしかしたら、ジグソーパズルのさいごの

1ピースがはまった時ってこういう感じ

なんだろうかって思いながらエアーなパズルを

描いてみたくなるあの朝を思い出していた。

日常が日常のままこれからも続きますように。

あのひとの 胸の端っこ 足りない欠片
永遠に はぐれてしまった ピース探して    


 

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