言葉で伝えられることって、いつもほんの少しだ。
形にならない形というものが
世の中にたくさんあるとしたら
わたしはそんなものばかりと
ずっとつき合ってきたような気がする。
形にならない形を伝えなければならない時。
それを説明する人の懸命さに惹かれて
人は人のことをいいなぁと
思ったりするのかもしれない。
逆にわたしが甘いと感じた甘さを、
こんなに甘かった、と聞いてもらわなければ
いけない時、
そのあやふやな輪郭を
わたしの知り得る限りのことばで
綴ったり、声にしたりする。
もうひとつ届いていないなと感じた時は
言葉でわからなければ
いっそ同じキャンディをあげたらいい。
もうこの世の中からいなくなってしまった
歌人の好きな歌がある。
海を知らぬ少女の前に麦わら帽のわれは両手を
広げていたり 寺山修司
海をいちども見たことのない少女に
<麦藁帽のわれ>は海の広さを教えてあげようとする。
こんなにでっかいんだよと両手を広げながら。
この歌に出会う度、とてつもない海の大きさや
広さを感じて欲しくて痛くなるほどふたつの腕を
伸ばしている<麦藁帽のわれ>をわたしは感じる。
そして、だしぬけに少しだけ歌の中の少女に
なって、わかったよって言ってあげたくなる。
そんな束の間、少女の頃は過ぎたし昔ほとんど
少女でも少年でもなかったわたしはあの歌のなかの
<麦藁帽のわれ>にもなってみようと試みる。
伝えたい思いが生まれると、人はあらゆる限りの
智恵をしぼって<麦藁帽のわれ>になる。
もう、なるしかないという必然の思いが形になって
誰かに届けられるのだ。
潮の香りが漂うベランダを抜ける夕刻の風は
そんな季節の感傷も同時に運んできてくれていた。
潮の匂いを知らないあなたが側にいてそれを
伝えようとするとき、あなたと海に行きたいと
想うのだろう。
あやふやな 月の形に 海が濡れてる
むきだしの 心の中に 満ちてゆく人
いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊