ぼくたちの、たった一度のさよならを。
さよならを、ずっと先延ばしにしている。
そのことが、光のこころのどこかに巣食ってし
まっている。
滉も同じ思いの中にいるのか光は確かめる術も
ないし、そうすることがどこか、まだ早いのか
もしれないと言い訳のひとつにしてしまってい
た。
会社の制服の胸元についている名前のプレート
を見る度に、どうしてじぶんの名前が光と書い
て、「あきら」と読ませたかったのか、生後10
か月で死んでしまった自分の父親と母親に聞き
たい気持ちが湧いてきて、心がくもる。
じぶんがあきらじゃなかったら、須賀滉と知り合
うこともなかったかもしれないと思う。
あ、同じ名前ですね、みたいなきわめて初歩的な
社交から8年も続いてしまうなんて、じぶんたち
はどうかしている。
久しぶりの休日。
あんなに雨ばっかりだったのに、ふいにあたたかく
なると、庭のいろんな植物たちが芽吹いて、季節は
ちゃんと前に進んでいるんだなって光は気づく。
緑はすくすくと育ち、ぶかぶかの制服を着た幼稚園
生が、嵐のような風のせいで道端に落ちた何かの枝
を拾って、樹を見上げてている。
つかんだものへの驚きを伝えようと、見上げた視線
をそばにいるお母さんに預けて。
出窓から見えたそんな風景を見て、あんな時間が光
には訪れなかったことに思いめぐらしていた。
その代わり祖母が母の代わりを、大学三年の時に亡く
なるまでつとめてくれたことを、思いだす。
昔ながらの古いミシンのかけ方を、手と足でリズムを
とって教えてくれたり、鰹節の削り方を音で覚えなさ
いって言ってくれたり。
おにぎりを2人で作った時に、光が作ったものは、握
りがやわらかだったのか扇風機の風が吹いてきたら崩
れてしまったことがあった。
お皿の上でばらばらに散ったおにぎりを見て、ふたり
で思い切り笑った。
祖母は笑いすぎて涙を流していた。
他愛もない時間が流れていたことが、光のなかでとて
も狂おしいほど大切な出来事のように感じてしまう。
季節を超えてしまった、コートを洗う。
薄いグレーのウールのそのコートは、もうずいぶん昔
に、祖母がいちどだけ袖をとおしただけのものだった。
背の高さも体型もどちらかというと似ていたので祖母
が亡くなった時、10年以上も前に形見分けしてもらっ
たものだった。
はじめてこの冬に袖を通した時、光はとくべつあたた
かいものに触れている感覚があった。
いつも厳しい祖母だったので、抱きしめてもらったり
頭をなでられたりしたことはないけれど。
このコートのどこかにそういう力が潜んでいるみたいに、
体をつつんでくれた。
なにかにつつまれているって、こんなにも安心感がある
んだなって思って、仕事でちょっとハードルの高そうな
イベントに挑まなければいけないときなど、いやそれ以
外の日にも、好んで着た。
大切だったひとの体が触れていた、エネルギーのような
ものを光はその時はじめて感じたのかもしれない。
週末の真夜中に、「25年目の弦楽四重奏」という映画を
観ていた。
映画の中バイオリン。
たちまち消えてゆく音に耳を奪われながら、秒の束が降
り注ぐことを感じていた時、滉から電話の呼び出し音が
鳴った。
週末なのにふたりが逢う約束をしなかったのは、今日が
初めてかもしれない。
そんな些細なことになんの意味もないかもしれないけれ
ど。
ふたりの中を縫っているあわい色合いの糸は、張りつめ
ることもなくどこへ向かおうとしているのかも、わから
なかった。
「光? 今何してた?」
「コート洗ってた」
「コートって? あの勝負コート? お祖母さまの形見の?」
「そう。なんでわかった?」
「なんとなく。で、それから何してた?」
「映画観てた」
「光? 明日空いてる?」
「明日、いいよ」
「どこがいい? クレーの喫茶店にする?」
「わかった」
「クレーの喫茶店」は、光や滉がフェアの軽く
打ち上げなどをするときに使う仕事がらみで行
くカフェだった。
プライベートで会う時には絶対使わないカフェ。
滉との電話を切ってからハンガーに吊るされた
乾いた祖母のコートの襟元のタグを見ていた。
そこにふいに<memory>というロゴの連なりを、
みつけた。
ずっとそのコートのことは知っていたのにロゴを
みたことはなかった。
そっと腕を通してそれを纏ってみた。
10数年ぶりに、体温を感じる祖母と邂逅している
かのような気持ちに駆られていた。
明日は冬が後戻りしたような気温ですって気象予報
士が言っていたことを思い出す。
大丈夫だよね、おばあちゃん。
わたしこれから大丈夫だよね。
光はそう呟きながら明日このコートを滉との待ち
合わせ場所に着てゆくことを決めた。
さよならを先延ばしにしていることにピリオドを
打つのは明日になるんだなって、
光は映りっぱなしの映画「「25年目の弦楽四重奏」
の25年目という数字にくらくらするような羨望にも
似た彼方を感じていた。
さよならと 口にするたび 魂がすこし
軽くなる 人間って 「そんな生き物」
いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊