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美味しいは、「生きる」のはじまりだと教えてくれる『川っぺりムコリッタ』。

30歳の誕生日を刑務所で迎えていた山田は、
ムショを出たらいつか川べりに住みたいと思っ
ていた。

常に日常がおびやかされているような川沿いの田舎街。

『川っぺりムコリッタ』荻上直子著

できうる限り限界を生きているような街がいい。

誰ともかかわらずにひっそりと死ぬまで生きたい。

ギリギリを感じてさえいれば生きる実感が湧く
のかもしれないと。

そんな街を山田は選んだ。

そして拾ってくれる人たちがいた。

北陸にある塩辛工場をあっせんしてもらい、
イカを捌く毎日をとりあえず手に入れた。

僕は僕を巻き込んで回っていた大きな歯車から
放り出されて少しほっとしていた

この気持ちに少し馴染んでいた。
少しじゃないかもしれない、人とのつながりが
密になると遠くに行きたくなる小さい頃の自分の
癖にこの小説の一行は、見知った世界のように
そこにあった。

何度かイカを山田が捌いているシーンが何度か
登場する。

手袋をしていてもぬめっとした感触が手に
伝わってくる。

それをひとつずつ内臓や頭や中骨、足などに
分けてゆくシーンを読みながら、わたしも体感
している気持ちになった。

鬱を患っていた時に、イカの内臓を捌いて、
エンペラなどを引き出す作業をしたことを
思い出していた。

あの頃できうる限りモノクロームの世界に
潜んでいたいと感じていた。

気持が動かないものを好んだから、生身の
ものを敬遠していた。

生き生きと生きているものには触れていたく
なかった。

でも台所で夕食を作るためにイカのはらわたと
格闘しているとき、うまくいえないけれど、
生きているものの感覚を指先や手の甲が如実に
味わっている気がしていて、心が動揺したこと
があった。

すぐに元気になったわけではないけれど。

生ものと格闘していると、指にふれるイカの
内側の感触は、わたしをすこし「生きる」の
方向へと誘ってくれていたのかもしれない。

この小説で山田がイカの塩辛工場に勤め始めた
ときにやらなければいけないその作業は、死の
ほうに近寄りたかった彼が「生きる」に近づい
たシーンとしてわたしの中で鮮明に焼き付いて
いた。

山田には、ご飯を上手に炊くことができるという
すばらしい特技があった。

山田は自分のスキルだとそれを感じていなかった
けれど。

ああ、なんていうことだろう。うまい。うまい米は
どうしてこんなにうまいんだろう。うますぎて、泣
けてくる。

こんな幸せなひとりごとを漏らすようなところも
山田にはあった。

彼がまだ気づいていない唯一の特技を教えてくれ
たのはアパート<ハイツムコリッタ>の隣室のちょっ
とウザい島田だ。

必ずタイミングよく白飯をねだりにくる島田。

最初はお風呂だった。

銭湯が高いからお風呂貸してくれない?
って屈託のない様子でやってくることができるのが
島田という男。

そう、かなりうざいのだけれど。
読者のわたしも島田に巻き込まれているうちに
すこし憎めなくなっている。

彼は、共同の庭園で赤いトマトや緑のきゅうりを
育てていた。

みずみずしい野菜たちはいつも白いごはんのお供
になっていた。

味噌汁や焼き魚も、ほかほかの白飯のそばにあった。

そして4歳の時に別れた父の遺骨の存在に戸惑って
いた山田は、彼の存在まるごとなかったものにして
しまいたかった。

ないがしろにしたい衝動のまま島田にぽそりと
打ち明けると。

「どんな人だったとしても、いなかったことに
しちゃだめだ」

そういうことを白飯を平らげながら言う人なのだ。

わたしは島田と山田をみながら思った。

いつも職場で格闘している山田のイカの塩辛は、
白いご飯とつかずはなれずの距離にある相棒にみえて
くる。

ご飯にとっての相棒が塩辛であるように、いつしか
山田にとっての島田も同じ関係になってゆくところ
も、はるか昔に運命づけられていたかのようなものを
ふたりに感じていた。

白いご飯が影の主役でもあるこの小説は、死を
意識することがあたりまえだった山田にとっての
「生きる」までの心の変遷が、ハイツムコリッタを
通して綴られた愛すべき記録なのだと思った。

大家の南さん、いつもなわとびを川べりで必死に
練習している南さんの娘カヨコちゃん。

土手沿いにできた山の上で聞こえるピアニカ。
言葉でコミュニケーションしない洋一はピアニカが
たったひとつの彼だけの言語のように山田に音で答
える。

あんなに孤独にうずもれたかった山田はこうして
人とかかわりながら日々を暮らしていた。

島田が育てている畑の野菜たちも、

これもど真ん中「生きる」の源だった。

島田が育てていたニンジンを口に運んだ時
山田が感じる幸せ。

それはまだ漢字の幸せではなくて、少しよそよそ
しいシアワセだったけれど。

島田がぽつりという

ささやかなシアワセを細かくみつけていけばさ
なんとか持ちこたえられるのよ

島田はところどころで心に刺さる言葉を
山田とわたしたち読者に残してゆく。

島田はずるいなぁ、ほんとうに。

この小説は、生きてゆくことに絶望していた
日常になんの喜びももてなかったひとりの
ムショ帰りの男の人が、食べ物を通してシア
ワセをその傷ついた手でもういちどつかみなお
してゆく、再生の物語なのだと思った。

ムコリッタ
この瞬間に誰かが生まれて誰かが死んでゆくことを
思った。

かつて死んでいたアパートの住人ともふしぎな形で
山田は関わりながら、かつての父親との死を受け入れ
てゆく。

許さなくてもいいんだけどさ、恨むのやめるとラク
チンだよ

島田の言葉を受け入れるように山田は父の死に反発
しながらも受け入れ、父が死んでから彼の人となり
をジグソーパズルの欠片のようにひとつずつ埋めて
ゆく。

ハイツムコリッタは、なにも持たないひとたちの集合
体のように見えるけれど。

それは違う。

とても豊かなのだ。

最近わたしはおもう。

何かをもっているってなんだろうと。

何も持っていない人がほんとうはたくさんを手にして
いるのではないかと。

島田が終盤で言う台詞に泣いた。

「ご飯ってさ、ひとりで食べるより、やっぱり誰かと
食べたほうが美味しいよね」

そしてさらにつづけてこう言う。

「自分が死んだとき、寂しいって思ってくれる人がひとり
いたら、それでいいと思ってるんだよね。それって、かなり
シアワセなことだと思わない?ねえ山ちゃん、ボクが死んだら
サビシイって思ってくれる?」

山田はこれから、きっとここ「ハイツムコリッタ」で
生きてゆくに違いない。

そう思うと、読者であるわたしのさびしかった輪郭が
すこし溶けてなくなっているようなそんな気がした。

そしてわたしは真っ白いご飯をちゃんと美味しく炊いて
味わってしみじみ食べてみたくなっていた。

美味しいは、「生きる」の伴走者なのだから。



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