"文章本"に載ってた修正例が「正しい」のか、モヤモヤした話
「文章の学校」へようこそ。ここでは、文章の学校の主宰である元木哲三が、言葉の力を磨きたい迷える学生からの質問にお答えします。
今回は、文章の「正しい書き方」に関する質問です。
尋ねる人:内川 美彩
先日読んだ『文章力を伸ばす』(阿部紘久)という本に
と書かれていました。
この本に掲載されていた例なのですが
↓
というふうに修正されていました。
確かに原文は2行目の後半になるまで誰の話が始まったかが分かりません。言われてみれば、ニュース原稿などでは「誰が何をした」というのが真っ先に伝わるように書かれています。
一方で、本田勝一氏は「日本語の作文技術」で「長い修飾語を先にして短い節を後にする」と書いていました。
私は、原文のほうが好きですし、自分が普段原稿を書くときも「長いものから短いものへ」を意識して書いています。
うーん、何が正しいのか、わからなくなってきました。
正解は、あるのでしょうか。
答える人:元木 哲三
ほう、こんな質問をしてくるようになったんですね。うれしい限りです。
あなたと文章の技術的な側面について語り合う日が来るとは、10年前には想像もできませんでした。いま、遠い目をしすぎて、危うく自分の背中を見てしまうところでしたよ。
さて、世には文章読本があふれかえっていますよね。正直、玉石混交ですし、一冊の本の中でも「こちらは使えるけど、これは誤解されちゃうなぁ」なんてことはよくあります。文章読本はあくまで参考として、自分の経験と照らし合わせた上で、情報を取捨選択する必要がある。
ぼくの場合は、自分が経験的に身につけてきたものを確認する作業として読んでいます。「ふんわりそう思っていたけど、形式知化してくれて、ありがとう」みたいな感じ。「使えない」「誤っている」と思われる情報であっても、脳内で反論することで、自分の考えがまとまるきっかけになるので、いずれにせよ参考になります。
「父」までがそんなに遠いか?
というわけで、件の文章をあらためて見てみましょう。
これ、「父」までが遠いかどうか、ですよね。ぼく自身はそれほど遠いとは感じません。「誰か、人のことについて語っている」というのはわかるから、その前提で読んでいれば、すぐに到達するという感覚。だったら前の修飾部が父に一気にかかってくるこの書き方は、けっこう気持ちがいいですよね。
遠いとみるならば、「何について書いているの?」という疑問に読者の思考エネルギーを使わせるわけで、だとしたら確かにもったいない。人によっては遠いと思うかもしれませんね。微妙な長さではある。ただ、
とやってしまうと、「ので」の理屈っぽさが出てきてしまって、そこにぼくは引っかかります。「ので」と言われた時点で、「本当に根拠として盤石なの?」という問いが立ってしまう(これはぼくの性格が悪いからかもしれないけどね)。
書き手としては、その点、さらりと行きたいわけです。疑問をいただかせたくない。なんとなく「そもそも恵まれなかったんで、家族の愛を望んだんだな」と読者に読んでもらえるように仕向けたい。この視点に立っても、ぼくは前者が優れていると思うのです。
つまり、主語(という概念を使うかどうかは難しいところだけど)がなかなか出てこない、という指摘に対しては、それほどでもないし、むしろ「ので」を使うのは得策ではない、というのが、ぼくの意見ということになります。正解かどうかはわからないけどね。
自分なりに勝手に書き換えてみる
ただね、その前にちょっと疑問なのは
という文章の中の「大家族の中に育って」なんです。大家族の中で育つって、どちらかと言えばポジティブなイメージがありますよね。
という文章に素直にうなずけるだろうか。なんか変ですよね。ぼくならば
と書くかな。これでは元々のリズムが損なわれた、ということであれば、思い切って、大家族を捨てよう。
もう一工夫してみましょうか。リズムという面では「強い願望」が、「父」の前の修飾部のボリュームに対して弱いので
音の数的には、このバージョンがいいように、ぼくは思います。どうだろう。可能性はまだいっぱいあるから、考えてみてください。
このように、どんな文章を読むときでも、「もっとこうしたら」とか「自分だったら」と考えながら読めるようになるといいですよね。
※「福岡Webライティング道場」では、このような話題をおもしろく、深く追求しています。
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