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文の文 1

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文というハンドルネーム、さわむら蛍というペンネームで書いていた作文をブラッシュアップしてまとめています。
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#エッセイ

深海魚

深海魚

かなり前のこと。

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横浜文学館の開高健展の講演で.作家の高樹のぶこさんが「男は回遊魚で女は深海魚だ」と言った。

回遊魚はどこまでも泳ぎ続ける。止まったら死んでしまう。

深海魚は近づいてくるものをじっと待つ。あるいは明かりでおびきよせる。

高樹さんは回遊魚が男で深海魚が女だと言った。

それは実に含蓄のあることばで、なるほどそういうものかとうなづきもしたのだが、最近アクティブなひ

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かくひと

かくひと

そのひとは、すらりと長身でスリムで、すこしかなしげに見える大きな眸の持ち主だった。

リタイア前にカルチャーにでも行って文章を書こうなんて志すひとには、才能だとか環境だとかとは違う次元で、きっと何かしら秘められた不幸があるのだとあたしは思っている。

そのひとの眸の奥にもそんな時間が閉じ込められているように思った。

混沌としている自分の思いを紡いで、糸巻きに巻きつけるようにして言葉に変えていく。

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おもいやりのかたち

おもいやりのかたち

電車のなかで考えた。優先席を見ながら考えた。

これからの高齢者社会、優先席じゃ足りないってことで、優先車両というものを作ったら、それは福祉になるんだろうか。差別になってしまうんだろうか。

その車両を端っこに置いたら差別で、真ん中に置いたら福祉だろうか。

どこかの国であった、黒人は白人車両に乗ってはいけないとかいう隔離政策を連想させるようにも思うが、グリーン車だと考えれば優遇ということになるよ

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沈黙

沈黙

新たに知り合ったひとといっしょに行動する時、沈黙が怖かったりする。気まずいような感じ。

で、なにやらしゃべる。それはたいして意味のないことをただ会話の隙間を埋めるためだけにしゃべる。

若いときはそういうサービス精神でなんでもかんでもしゃべっていたなあと回想する。

今は、なんだかそういうことに疲れてしまう。そんな無理してまで一緒にいなくてもいいと思えてくる。

沈黙することで、告げることもある

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スケッチ〜聞きたくないひと〜

スケッチ〜聞きたくないひと〜

駅の改札から続く通路を行く背広の集団は、健康体のサラサラ血液のように足早に流れていく。その速度が世の中でのなにかしらの証明であるといわんばかりに。

その黒っぽい背広の群れの中に白いコートを着た人がいた。そのひとが小さな歩幅で膝から下だけ動かして歩いている姿は黒い流れのなかでは小さな島のようにも見えた。

その島がだんだんわたしに近づいてきた。白髪頭でおじいさんと呼ばれても不思議はない感じの男性だ

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ふるかわさん

ふるかわさん

同じ中学に通っていても、ほとんど交流のないまま卒業してしまい、まったく記憶に残っていないひとも少なくない。

ふるかわさんにとってのわたしはまさにそういう人間だったと思う。

しかしこちらはふるかわさんを覚えている。バレーボール部で活躍したハンサムウーマンだから、ということもある。

短く刈り上げた髪に上気してピンクも染まる頬。
いつも笑っているような目、しんこ細工のしんこをハサミでひゅーと引っ張

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頭を抱える

頭を抱える

ひとにはね、思い出したくないことがあるのね。

はずかしかったり、やりきれなかったり、情けなかったり、さびしかったり、かなしかったり、不安だったりしたこと。

もうもう封印してしまいたいよね。

誰かを傷つけてしまったという記憶も思い出したくない。

けど、絶対になかったことになんかできないんだなあ。

時々、深いところから湧き上がってくる、困った記憶と対峙して、わああと頭かかえて赤面して大泣きし

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はしもとさん

はしもとさん

横浜の団地に20年余り住んだ。
その間、隣人は何度か変わった。
その2番目の隣人の奥さんが橋本さんだった。

幼い男の子ふたりを抱えた若いおかあさんで
大きな眸をしていて、その色が深いひとだった。
そして若いけれども
落ちついた控えめな感じのするひとでもあった。

自分たちの暮らしはそれなりに楽しみながら
これ見よがしのところがなく
まわりの雰囲気を読みながら
あれこれ気づかいする、
副委員長みた

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足技

足技

台湾の地下鉄に乗ったおりのことだ。

水色のプラスティックの座席に座った。隣では若い女性が新聞を読んでいた。きりっとした顔立ちできびきびした感じだ。なんだか気になってついつい盗み見た。

新聞はむろん漢字ばかりだが、なんとなくわかるところもある。そのひとは経済のページをしげしげと見ていたが、その裏には美容欄とか家庭欄とかもある。

本の紹介の欄に漫画本のランキングがあり、そこに日本の漫画家である井

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ののぐちくん

ののぐちくん

吉田戦車というひとのコミックを見ていると、ときどき無性に懐かしい思いがして、それは何でだろうと思案して、たどり着いた考えが、その隅っこのほうになんとなく描かれているひとが、小学校時代の同級生のののぐちくんに似ているということだった。

家の方針なのかいつも坊主頭で、うりざね顔というのか、ひょうたん顔というのか、ピーナツ顔というのか、なにしろ色白の細面で、こめかみのあたりが少し締まった長い顔だった。

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たいせつなものの順番

たいせつなものの順番

そのひとは1950年生まれだった。東大入試がなかった年に受験して、早稲田の政経に入ったという才媛である。

専門学校の講師を経て大学院へ入り資格を得て、今は水戸のほうの大学のセンセイをしているらしいが、詳しいことはよくわからない。

横浜の朝日カルチャーのエッセイコラムの教室で出会った。その頃専門学校で文章術も教えていたそのひとはカルチャーで教わったことを自転車操業のように学生に教えていた。

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ぐるぐるまわり

ぐるぐるまわり

意識はいつもぐるぐるまわり。

*****

朝、ある柑橘系果物を剥いていた。

それはグレープフルーツに似た新種で
名前はたしか・・・メルロ・・・
ああ、そのさきが思い出せない。
そこまでで記憶が途切れている。

まあ、メルロなんとかで
そのあとがなんであろうとも
食べているこの果物は変わらないのだけれど
それにしても
日々の物忘れ全開状態に
危機感を持つおばさんは
しぶとくメ

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少女のように

少女のように

結婚というのはふたりだけの問題ではなく、相手の家族と繋がるということであり、それは喜ばしいことばかりではなくて、たくさんの思いもよらないの問題が生じたりする。

その問題のなかでも、お金のことは実にやっかいだ。いいひとばがりが損をする。

Sさんの結婚も自分たち以外の問題がたくさんあった。親戚の金の無心にほとほと疲れ果て、そのひとたちと縁を切るには……と考え、離婚を選んだ。

そして、腕に覚えのあ

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この月

この月

11月は霜月とも言われる。調べてみれば神帰月とか、雪待月とかの異称もある。数字とか順番とかではなく、暮らしの実感に満ちた呼び方はすっとこころに寄り添う。

神無月のあとだから、出雲に行ってた神様が帰ってきてくださる月なのだ、とみんなが納得してたんだろうな。

南の地方では雪は待たないだろうけど、寒さの始まりの予感と心づもりの月だと教えてるようだ。

そして一月は睦月と呼ばれるが、やはり異称もある。

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