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はしもとさん

横浜の団地に20年余り住んだ。
その間、隣人は何度か変わった。
その2番目の隣人の奥さんが橋本さんだった。

幼い男の子ふたりを抱えた若いおかあさんで
大きな眸をしていて、その色が深いひとだった。
そして若いけれども
落ちついた控えめな感じのするひとでもあった。

自分たちの暮らしはそれなりに楽しみながら
これ見よがしのところがなく
まわりの雰囲気を読みながら
あれこれ気づかいする、
副委員長みたいな感じだった。

お引越しが決まって、荷物が出て
最後の最後に管理人が点検に来て
管理人が流したトイレの水が溢れていたのだが
気づかぬまま管理人は帰ってしまった。

あとになってそれに気づいた橋本さんは
あわてて元栓を締め、管理人を大声で呼び返したが
戻ってこなかった。

そのせっぱつまった呼び声を聞いてわたしが顔を出すと
橋本さんは引きつった顔で事情を訴えた。

溢れた水をなんとかしようと思っても
荷物はもう全て出て行ってしまっていた。
それでうちの雑巾を出してふたりで水をふき取った。

3月の終わりだったが
濡れた靴下はだんだんに冷えてくることだろうと思い
替えの靴下を出した。買い置きの新品だった。

橋本さんは首を振った。
「お返しできないかもしれない」
わたしも首を振った。
「あげる」

「そんな、悪いし」
「次はあなたが他の誰かに同じことしてあげればいい」

そのときの橋本さんの
困ったような泣きそうな顔を今も覚えている。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️