サクヤ(仮名)

1歳の時に母親が入信した宗教を21歳まで熱心にしていた私の話。 振り返ると色々あった…

サクヤ(仮名)

1歳の時に母親が入信した宗教を21歳まで熱心にしていた私の話。 振り返ると色々あったけど、後悔はしてはない。でもしっかり閉じた心の蓋はある。 名前はそのうち変える予定。サクヤは私のゲームアカの名前。

最近の記事

バプテスマを受けるまで

リカちゃん人形も捨て、全ての行事にもしっかり証言をして参加しなくなった私は、霊的でしっかりした子供として認知されるようになった。伝道者の次はいよいよバプテスマを目標にするよう焚き付けらた。 長老からの励ましというか更に目をつけらた。 小学6年でバプテスマを受けることになるのだが。私の場合受けるまでが大変だった。 ちょうど反抗期と重なってることもあり、バプテスマどころか、伝道者剥奪までの話があがっていた。 親の言うことに「はい」が言えなかったあの頃。 鞭とお友達になってい

    • 学校とエホバの証人

      廃盤になった冊子になったと思われる「学校とエホバの証人」 これは私の学生時代にかなり影響ありました。 祝日が事細かに書かれてあったせいで、それが基準となり小学生の時は、クリスマス会、七夕集会、選挙で体育館に集まるときは教室に残らないと行けなかった。 その時の先生への証言は本当にしんどかった。 証言するからにはあんたの行動は全部エホバへの証言にもなるんだから、常にいい子じゃないといけないとも言われたけど いい子には程遠い生活をしていたため、先生の目や顔色を常に見る子になっ

      • 開拓者学校

        20数年前の今頃、私は開拓者学校に夢と希望に満ち溢れて通っていた。 開拓者学校は正直に言うと楽しかった。 差し入れも美味しかったし、交わりも楽しかった。大好きな兄弟と通えて一緒の目標だってあった。そ兄弟の席の後ろや近くに座ってみたり…話したり、一緒に写真を撮ったり多分私の性格上しっかりバレてたね。 そして巡回監督から次の年の3月には必要に出る話もその時に出た。 姉妹なら大丈夫だよ。色々準備して必要に出たらいいよ。と話しもらっていた。 その時の私は早く家から出たい。何が何で

        • 好きだった人

          好きな人を作って妄想するのが大好きだった学生時代。 でも厳格なエホバの証人時代。 お付き合いはまったく出来ませんでしたが、 幼なじみの兄弟と二人で集会から一緒に帰っては二時間近く家の外で話し将来の目標や結婚したいねぇ~とか。 夢物語をずっと話すそんな高校時代を過ごしていました。 手を繋ぐだけでドキドキしていたものです。親が近くに居るのにこっそり親の目を盗んで手を繋いだり。本当に青春してました。 そんな高校時代を過ごしてたけどその兄弟は高校卒業後、離れてしまった。地元を

        バプテスマを受けるまで

          たまに思うこと

          40数年間生きてきてうち20年間はjw生活を送って来た これぐらい頑張ったら認めてもらえるの? 奉仕を毎日出たら?集会で毎日注解したら? 個人研究を頑張ったら? 学生時代だったら学校で頑張って証言したら? そしたら私もエホバの証人の一人として認めてもらえるの? 開拓者になったら、私はこの会衆で認めてもらえるの? そんな事ばかり考えていた。 褒めて欲しいと言うよりは…一人の姉妹として存在を認めてほしかった。 世から離れていなさい。なんて小さい頃からいわれ続けたら

          たまに思うこと

          自己決定と自己責任という名の罠 その2

          私がバプテスマを目指しはじめた時に、母から信仰の妨げになるとリカちゃん人形とジェニーちゃんを処分するように言われた。 それだけは本当に嫌で嫌で。大切にしていた人形達と買ってもらったばかりのリカちゃんハウス。私はずっと無理と泣いて訴えた。 お願いだから捨てないで。 母は泣いて捨てないなんて。ほんとに信仰が足りないと言われた。 このとき母から結構抜き打ち机チェックがはいり、友達から貰ったもの。授業でかいた小説に、クラブ活動で書いた童話すべて空想は相応しくないと集められて、

          自己決定と自己責任という名の罠 その2

          自己決定と自己責任という名の罠 その1

          blogから引っ張ってきたので当時のまま載せます。私が30代の時の話です。 ちょっと前に母から一本の電話を貰いました。 それまであまり思い出したくないネタだったんですが、母からすごく謝られたあとに買って送るわって。 もう30代の大の大人。要りませんと返事しました。 それが リカちゃん人形とジェニーちゃん。 小さい時にクリスマス、誕生日は祝わないからその時は買えないけど、父親のボーナスが入る度に父親と母親からプレゼントということで、リカちゃん人形を買って貰いました。

          自己決定と自己責任という名の罠 その1

          一世に憧れた二世の私

          離れて20年以上経つけど・・・・ 私には結局わからなかった事があるの。 それはね。。。信仰とか、神様を身近に感じることとか、神を求めることか。 一世の人ってみんなそういうの求めて入ったんでしょ? でもね。私にはそういう気持ちになることって全然なかった。 でも、みんなに認めてもらいたかったんだ。 「えらいね」「よく頑張ってるね」 「成長してるね。」って言葉みんなに言われて欲しい。みんなから認めてもらいたい。 でもね。本当はお母さんから認めてもらいたいって気持ちでずっ

          一世に憧れた二世の私

          1人で証言をする

          必要から来た長老からすごく励まされたり、熱心なお母さんの子なんだからあなたも頑張りなさいと言われるようになった…伝道者も目指すようになり。親が代わりにしてくれた証言をいよいよ1人でしなくてはいけなくなった。 廃盤になった冊子になった「学校とエホバの証人」 これは私の学生時代にかなり影響がありました。 祝日が事細かに書かれてあってだからそれが基準でクリスマス会、七夕集会、選挙で体育館に集まるとき教室に残らないと行けなかった。 その時の先生への証言は本当にしんどかった。

          1人で証言をする

          母の教育

          私の母、教理をよく勉強する人でした。 母が作った個人研究ファイルは沢山あり、母の聖書はたからの宝庫っていうぐらい綺麗に書き込まれた資料になっていた。 そして我が家ではよく交わりがあり、たくさんの人が集まっていた。だから母はよくレクレーションにとアイテムを作っていた。 手作りのカルタや紙芝居、絵の上手い母は沢山作っては聖書勉強といいながら、分かりやすい聖書カルタを使って教育していた。 それに伝道ごっこや割り当ても簡単でいいから作ってみてと言って、日常の生活でもまJWの教育を

          初めての証言はお母さんと一緒

          小学生の頃はそれなりに熱心にJWの活動をしていました。 初めての証言はすごーく印象に残っています。 小学一年の時の給食にクジラのお肉が入ったメニューがありました。 母親からクジラのお肉は食べてはいけない。きちんと証言しなさいと言われたけど、小学校に入学したばかり…まだその時は証言が出来ないよ。って言うと母親が仕方ないと言って、学校にきてくれて証言することになった。 母が先生に 今度の給食にクジラの竜田揚げがありますが、宗教ゆえ食べれませんので、この子には出さないでくだ

          初めての証言はお母さんと一緒

          私のJWの活動歴

          5歳の話を書けたし。これを紹介したら色々な記事をアップしていきます。 時系列順にと作業をしてるんですが…いやー膨大なblogから見つけ出すのは大変。なるべく頑張ってますが、若干飽きたし、書いた方が早いんじゃない?ってなってきました。 ちょっと興味無い話かもですが。 私の活動歴をちょっと紹介 1歳の時 母がJWと研究はじめる 3歳の時 島から街中に引っ越す 5歳の時 母がバプテスマを受ける 小1の時 私神権宣教学校に入校 卒業のない修

          私のJWの活動歴

          記憶の無い5歳 心の蓋を閉じる その2

          ちょっと補足をこちらでは書いて行きます。 まずそのツイートは本当にそこの保育園の事?って言われそうですが。残念ながら私の通っていた保育園の事でした。 経営者だったJWの夫婦は全くと言っていいほど保育園の経営にはノータッチだったけど、聖書で禁止されていた行事は全てないという保育園でもありました。だから安心して保育園に入れたのにまさかそんな仕打ちをされてたとはと母は泣いていた。 でもね…母よ。5歳の時に母はバプテスマを受けた。研究を初めて4年、多分当時からしたらかなり遅い方。

          記憶の無い5歳 心の蓋を閉じる その2

          記憶のない5歳 その1

          写真を見返したら5歳から6歳にかけての写真が無いことに気づいた。なんでないの?って聞いたら撮ってないのと保育園のアルバムは捨てたと言われた。 母の中では忌わしい出来事の1つだそうだ。 私からしたらお前も加担した1人だろ?って思うけどそれは口が裂けても言わない。 私の幼少期、父が私たち兄弟に保育園または幼稚園に絶対通わせろと言っていた。 でもJW的に勧められておらず母は嫌がっていたが、5歳から6歳の1年間だけ保育園に通わせることにした。 それで母が相談した保育園はJWの夫婦

          記憶のない5歳 その1

          家族の話

          何個か記事をあげた後に、考えたら家族について書いてなかったので私の家族の話でも。 自己紹介も兼ねます。 父は地方公務員、母は専業主婦の最初の子供として私は誕生した。母は私が生まれときに。神様や人、全てに恵まれた子になりますようにという意味を込めて名前をつけてくれたけど、私はその名前に関してはすごく感謝している。 とにかく母は神様を信じていて、JWと出会ったのは神様の導きだったとよく話してくれた。 父は家族をとにかく大切にする人だったけど、お酒を飲むと人が変わる人でもあ

          トマトジュースの味と地域大会

          夏の時期になるとフッと思い出す過去の記憶とうっすらと覚えてるトマトジュースの味。 JWに入信した母、そして父は大反対者でした。 集会から帰ってきたら出版物が灰になっていたことが多々ありました。 今思うと父は父なりに家族を思っていたのかもしれない。 当時地域大会はF県まで行かないといけないため泊まりがけで行っていた。 母は父の反対を押し切ってF県の大会へ、私と弟を連れて出かけることに。 それを追っかけてきた父は、大会会場で私と母を引き離して連れて帰ります。大会会場で泣く私

          トマトジュースの味と地域大会