母の教育

私の母、教理をよく勉強する人でした。
母が作った個人研究ファイルは沢山あり、母の聖書はたからの宝庫っていうぐらい綺麗に書き込まれた資料になっていた。

そして我が家ではよく交わりがあり、たくさんの人が集まっていた。だから母はよくレクレーションにとアイテムを作っていた。
手作りのカルタや紙芝居、絵の上手い母は沢山作っては聖書勉強といいながら、分かりやすい聖書カルタを使って教育していた。

それに伝道ごっこや割り当ても簡単でいいから作ってみてと言って、日常の生活でもまJWの教育をしていた。

1年生の時に神権宣教学校に入校したのにも2回だけ割り当てが来てからは4年生まで一切来なかった。母は何度か兄弟にいうと言っていたが、人見知りやどもりがあって緊張すると話せなくなるため。嫌だった私はいいと言っていた。

当時は集会も休みがちで、頭痛い。お腹痛いと言っては休んでいた。家でお留守番しては滅多に見れないテレビを見ていた。
それでも許されるそんな緩い会衆だった。かなりの数の信者もいたし、そこまで目立つ家族でも無かった。
分会が決まり必要で来た1人の長老により、我が家は一転した。

必要出来た兄弟は、すごく熱心で面白い兄弟だったけど厳しい人でもあった。
母は食事招待をしてはよく長老夫婦と交流していた。私も最初は兄弟に懐いていて、家で作っていたなんちゃって割り当てをよく見せていた。

学校に入ってないの?割り当てはしてない?と聞かれて小1で入ったが、割り当てが来てないことを伝えた。割り当てを見た兄弟から再入校の話と集会を休まず来るように言われた。

それはどんなに風邪をひこうが、熱が出ようが、インフルエンザになろうが集会を休まず行く事が美学となった。下手したら学校は休んでも集会は休むなと極端な考えになり。
熱が出てても休むことなく第3会場で寝かされることもあった。そんな会衆に変わっていた。

言われたことに言うことをきいた我が家は長老からもいい評価をもらっていたらしい。
そんな兄弟に目をつけられた私は霊的な進歩を頑張るように言われた。  早く伝道者を目指すようにとも言われた。

その時までは出来ない行事も母に証言をしてもらってのらりくらりとしていた。それを母はいきなり自分で証言するように言い出した。
それは無理だと言っても、伝道者を目指すならダメだと言われた。
練習するから、祈ってすれば大丈夫と言われて証言をすることに

前の記事にも書いたけどそれが国旗掲揚。
しかしそれはハードルが高すぎた。       続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?