えいがい

えいがい

最近の記事

我々は生命から生命として生じ、生命の破滅として大地に朽ちる

人間の存在については歴史的に様々な方面から議論されていることではあるが、ここでは人間とは「自然の中に有り、社会の中に有る存在」であるという定義を採用して、人間存在の不思議について考えてみたい。 古代ギリシャの哲学者タレスは、万物の根源は水であると述べたことで知られるが、ここで水は生命を表している。つまり生命の根源とは自然の中にあるものである。論理ではない。これは現代人の感覚としても理解できるはずのものだ。 「生命」の定義については議論が多岐に渡るにしても、生命を有すること

    • 小説ー「陰影」

       歩き疲れた私は、陽が沈みかけたグランビルストリート(カナダ バンクーバーの大通り)の端に腰掛けられそうな場所を見つけ、束の間の休息を求めた。目の前は賑やかな往来、人々の顔を眺める気にすらなれないほど、落ち着いていられなかった。すれ違う人々それぞれに人生があり、その中に不幸もあるが、今の自分より打ちのめされていることはないと感じていた。何かをしなければ気が紛れないが、目的は無く、ただこの視界の開けた通りを無心で歩き回るしかなかった。幸福とは目的があることなのではないかという思

      • トマトスライスの魅力

        トマトの鮮やかな色とさわやかな味わいは、他に代えがたい魅力がありますよね。健康にもよくて最高です。 よく家でトマトを切って食べます。トマトスライスです。トマトを切るだけです。 だけど、ひとりで居酒屋(立ち飲みが多い)に行ったときでもついトマトスライスを頼んでしまいます。マヨネーズなんかが添えてあります。家でも同じようにマヨネーズや塩につけて食べます。しかしなぜか、居酒屋で提供されたトマトスライスは家で自分で用意したトマトスライスよりおいしく感じます。これはなぜか自分なりに

        • 「無知のヴェール」に対する私見

          昨日の話の続きになることです。 「無知のヴェール」っていう考え方を知っていますか。ロールズという哲学者が提示した思考実験なんです。もし自分の立場が分からないまま、例えば記憶喪失の状態で、自分が誰だかわからない、どんな仕事についているのか、健康な身体なのか、家族がいるのかもわからない状態で社会のルールを決めるとしたら、誰にとっても平和的なルールを決めるのではないかという考え方です。 つまり、自分が有利な立場にいることを自覚した人は、おそらくバイアスもかかり、自分がより有利に

        我々は生命から生命として生じ、生命の破滅として大地に朽ちる

          「欲求階層説」私見

          少子高齢化が進む中で、まずは「所得の平等」の達成を優先すべきだという考え方があります。その背景は、今の20代30代は物価に対して所得が低い人が多く、生活が苦しい人が多いということがあると思います。まず経済的な安心感のある生活を一定以上のレベルで達成する人が増えないと、経済圏が縮小し、発展性が望めないというリスクがあるわけです。 そこで、全ての人が最低限の生活を送れるように、まずは富の再分配を進めるべきじゃないかと。こう考えるようになるのは不自然ではないと思います。所得格差が

          「欲求階層説」私見

          57分の1の性善説

          こんにちは。昨日は疲れて寝てしまい書けませんでした。なぜか昨日は仕事終わった後かなり疲れていました。たぶんがんばって仕事で説明したからだと思います。 仕事について書こうと思っていたのですが、気になる話題があったので、それについて書いてみようと思います。免税店のニュースのことなのです。朝仕事に行く前に準備をしている時、ラジオをきいているのですが、そのときに免税店の話題がありました。 日本に旅行に来た外国人が免税店で買うと、日本でかかる消費税が免除されるわけですが、これは外国

          57分の1の性善説

          5年ぶりに帰省してきました

          虐待の根源である存在を華麗に回避し5年ぶりに帰省してきました。親戚回りもフルコースで行ったため、けっこう疲労がたまり、夜はぐっすりと眠ることができました。ベッドが自分の家のより固かった… ちゃんと親戚の家を回るのはおそらく10年以上ぶりだと思うので、親戚の人たちの周りの環境も変わっているわけですが、大学生の間に企業したりしている人や、プロのサッカー選手を目指すためにポルトガルに留学に行くような人(大学生)もいて、自由な人たちが多い印象でした。家の中でも頑なに帽子をかぶったま

          5年ぶりに帰省してきました

          だれかを応援するとき

          昔、父親がプロ野球の試合をテレビで見ていた。僕は野球にもその試合にも興味はなかったが、なんとなく一緒に見ていた。これもたしか小学生ぐらいのときだ。父親にどっちのチームを応援しているの?ときいてみたら、どっちのチームも応援していない、と父親は答えた。 正直そのときの自分は衝撃を受けたのだと思う。今でも覚えているのだから。普通スポーツ観戦というのは、どちらかのチームの側に立って勝つために応援するものだと、そういうものだと思っていた。しかし父親の返答から、目の前で勝負が行われてい

          だれかを応援するとき

          自分の人生の過程の価値をだれかにわかってもらえることはない

          いまの時代、単語レベルの知識はもちろん、人生のモデルケースなんてのもネットで検索したら簡単に出てくる。もっと細かい内容も、より時間をかければいろんな人が出した答えを知ることができるし、それに至るまでの議論の様子も探して見ることもできる。 要するに、昔の人が自分で発見するしかなかった答えを、別解含めてすぐに調べて知ることができる。言い方を変えると、自分が始めるまでもなく前に始めた人が死というゴールをもってある一定の答えに達し、それを残してくれている。ありがたいことだ。 だか

          自分の人生の過程の価値をだれかにわかってもらえることはない

          人間的サークルの中に佇みたい

          何かとのつながりをもつことによって、自分の気持ちを安定させて、自分の居場所があるということを実感できるという話を前々回していました。ここで、ただ事実としてつながっているだけではだめで、自分が納得するつながりとして、つながっていることが本当に大事なのだと思います。 では、自分が納得しないつながりは、関係がないものとして切断していいのかというと、今の自分はそのようには考えません。なぜなら、今の自分と、未来の自分では、別人である可能性がおおいにあるからです。今の自分にとって無駄に

          人間的サークルの中に佇みたい

          マイペースという言葉の功罪

          マイペースという言葉は、日本語としてすでに馴染んでいると思います。そのような性格だと言われたこともある人もいれば、自分はマイペースだと自覚している人もいると思います。でもこの言葉は、個人的にはちょっと注意が必要な言葉なのではないかなと思っています。 まず、マイペースという言葉が、その人自身から発せられること自体が、自由な世の中になっているということを示しているように思われます。人間関係がとても固定されている社会では、自分がマイペースであることを許しません。我慢してでもその場

          マイペースという言葉の功罪

          感謝できる存在とのつながりは、良いつながり

          こんにちは。夏は暑いので苦手な季節なのですが、洗濯物がよく乾くのがうれしいです。このまえ洗って絞ってないままバスタオルを干してみたのですが、数時間後には乾いていて、太陽すごいな~って思いました。 過去の投稿4回分かけて、だいたい今自分が考えていることの中心は言えたような気がします。けっこう長い間考えてきたことだと思うんですが、文章にしてみるとそんなに長くならないんですよね。自分はあまり長々と話すことが好きではないので、必要なことだけをできるだけ端的に話したいです。 なぜな

          感謝できる存在とのつながりは、良いつながり

          あるのは「生きる意味」ではなく、「生きた意味」

          自分にとっての特別な意味を、自分自身が感じようとすること――それが、幸福に至る道だと思う。 それは自分以外の人にとってよく意味のわからない、価値を感じないものでもありうるということを自覚しておくと、よけいなことで悩む時間を減らすはずだ。 強靭な忍耐をもって生きた正岡子規は、その人生において「悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きている事であった」と述べた。ここで言う「悟り」とは、意味もなく生きている

          あるのは「生きる意味」ではなく、「生きた意味」

          人生に意味があると思い込むことは、必ずしも人間的幸福には至らない

          自分で何かを決めること、その決めたことに責任をもつこと。それにより自信が生まれ、自分の存在を自分で肯定できるようになる。責任を持つということはリスクを引き受けるということである。リスクが現実化した時のその人の向き合い方にこそ、その人の価値が表れる。しかしそのリスクが顕在化した状況が、本人の想定を超えて大きかった時、抱えきれない損害を受け入れなくなった時はどうなるのか… 自己決定が裏目に出た時、つまり自己の決定によって何らかの大きな損失を被った場合、自分の人生に意味を感じられ

          人生に意味があると思い込むことは、必ずしも人間的幸福には至らない

          まず自分が「大人として」幸福になると、精神が安定する

          昨日は寝過ごしちゃいました。続きを書きます。 人間的幸福とは、希望を伴う精神的安定と、自己が納得する形での精神的紐帯の実感が同時に成立していることである。ここにおいて、人間的であるとは、親愛なる存在との関係性に敬意を示すことである。 前回の話は、ここまででした。次の話ですが、ではその人間的幸福が、現代社会の中で追求されるなら、どのようなことがまた背景にあるのか、考えてみたいと思います。あくまで都市空間を中心とした現代社会について述べます。もちろんこの人間的幸福は都市部以外

          まず自分が「大人として」幸福になると、精神が安定する

          人間的幸福とは、希望を伴う精神的安定と、自己が納得する形での精神的紐帯の実感が同時に成立していることである

          親が子どもを叱る時、子どもを他家(よそ)の子と比較することがある。この親の行動は、子どもの心を少しずつゆっくりと、しかし確実にむしばんでいく。僕自身がそうだった。成績が2位でも、なぜ1位ではないかと言われる。言われ続ける。1位になったとしても、このまえは2位だった、とか言われる。 親がこの行動をとると、子どもの心は「健康に」育たないと思う。つまり、歪む。自己肯定感が持てないからだ。その場合は、家の外で成功体験を積み重ね、「誰か」にほめてもらうしかない。それか、自分自身で自分

          人間的幸福とは、希望を伴う精神的安定と、自己が納得する形での精神的紐帯の実感が同時に成立していることである