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我々は生命から生命として生じ、生命の破滅として大地に朽ちる

人間の存在については歴史的に様々な方面から議論されていることではあるが、ここでは人間とは「自然の中に有り、社会の中に有る存在」であるという定義を採用して、人間存在の不思議について考えてみたい。

古代ギリシャの哲学者タレスは、万物の根源は水であると述べたことで知られるが、ここで水は生命を表している。つまり生命の根源とは自然の中にあるものである。論理ではない。これは現代人の感覚としても理解できるはずのものだ。

「生命」の定義については議論が多岐に渡るにしても、生命を有することが、人間が存在として実感されることにおいて不可欠である。つまり人間存在の根源は自然の中にある。

一方で、おそらく一般に「人間的である」と感じられるためには、理性的であることが必要になる。これは本能に従って生きている野生的な動物が対極として想定されている。本能的であるということは、理性的ではないということだが、これは別の言い方をすれば、計画的ではないということだ(あるいは、そのように見えるということだ)。

なぜなら、計画とは常に他者の存在を想定しており、他者との協力で成り立っている社会生活においては、不可欠なものだからだ。もしこの世界に自分しか存在していなければ、計画を立てる必要もなく、論理的に思考する必要も無い。

つまり人間とは、生命世界(自然)の中に生きていると同時に、人間社会(論理)に生きている存在であると考えられる。この二つは本来同等の意味を持つべきものであるが、現実に意識されることはほとんどが論理についてだろう。人間社会で生きる我々は、日々の仕事や活動に追われている時、目の前の問題を解決することに注力する。現実的には、自分を取り囲む人間の信頼を失わないことが、自分の存在を守るために重要だ。そして、問題の解決に向き合っている時、思考の中で我々は言葉を用いて論理的に思考する。

この時、問題解決に至るプロセスにおいて、自らが生命を有している存在であり、自然の中で生きていることに思いを馳せることはおそらく多くない。たとえ活動や仕事を離れた休息日であっても、人間の生み出す様々な情報に囲まれた我々は、その情報を処理し、より良い(とされている)時間を過ごすため、思考を働かせている。計画を立てている。つまり、日々の生活の中で我々は、人間は社会的な存在であり、論理的でなければならないという場面に余りにも囲まれすぎているということである。

理性とは言語による活動であり、人間による世界の記号化である。このような分節化は、人間が任意に行う世界の視覚化であり、人間が世界を分別(理解)するための作為である。

理性的に思考することは、世界を対象化する営みである。しかし、人間として存在するということは、理性を持つと同時に生命を持つということであった。

常に時間や責任に追われている現代社会において理性(言葉や記号で表された「知識」も同様である)を重視しすぎることは、人間は、自らが自然の中の一部である「生命」であることを忘れがちにする。しかし我々は生命から生命として生まれ、生命の破滅として大地に朽ちる。つまり、人間という存在を考えた時、生命であると同時に高度な知性を持つ人間としては、感性と、理性の両方が、バランス良く備わっていなければならない。

感性とは、言葉で表現されるべきものではない。論理性を離れたもの、それが感性である。すなわち、「人間」は、言葉を使うべき存在であると同時に、言葉を使うべきではない存在でもある。自然界に人間が生み出した言葉は所与として無い。

特に理性によって身を立てる現代人は自己=自分の思考=理性だと考えがちであるため、自分が生命であり、自然であり、感性であるということに意識的にならなければならない。現代のシステムが論理性による効率化、合理化の基に成り立っている社会であり、それゆえに人間社会は発展を遂げたことは事実である。

しかし理性的でしかないということは、人間本来の在り方から離れている。感性の究極が野生であるとすれば、理性の究極は機械である。人間存在について考える時、我々は自然の中にあり、社会の中にある両義的な存在であることを自覚した時、人間として(紛れもなく人間である自己として)幸福であるとはどのようなことか思考する起点に立つことができるはずだ。

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