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あるのは「生きる意味」ではなく、「生きた意味」

自分にとっての特別な意味を、自分自身が感じようとすること――それが、幸福に至る道だと思う。

それは自分以外の人にとってよく意味のわからない、価値を感じないものでもありうるということを自覚しておくと、よけいなことで悩む時間を減らすはずだ。

強靭な忍耐をもって生きた正岡子規は、その人生において「悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きている事であった」と述べた。ここで言う「悟り」とは、意味もなく生きていることそれ自体に感謝することができる、ということであるように思われる。

では人生に意味は無いのか?
個人の人生に意味を見出すとすれば、意味が「ある」状態ではなく意味が「あった」と当人が感じられる状態だと思う。おそらくそれは死を受け入れて死の準備をする段階である。

「意味がある」とは、そのこと自体に価値があり、そのこと自体に目的が伴うことである。そして、目的とは、巨視的あるいは長期的な観点とは相容れないものである。

なぜなら、今の自分から遠いところにあることを目的とすると、現実味が無く、目指している道筋を想像することが困難になるからだ。「生きる」意味や価値や目的を、生きている過程で実感し続けられる人間は、おそらくそう多くない。

だから、一生涯に対して意味を求める場面は、生きた結果として現れることが適切だと思う。それは、自らが死に直面する時、人生を振り返り自分の人生が良かったものと感じられたり、自分にとって(他の誰でもないかけがえのない存在である自己として)生きる価値がある人生だったと思えることである。その要素は、突然死ではなく、ゆるやかな病死や、老衰などの場合により強くなる。

それは、いま、ここを懸命に生きる立場の者にとって、余りにも遠い道のりであり、それを実感として求めようとすることは意味のあることとは思えない。

その時の自分にとって価値のある計画を立て、実行するとき、達成するためには適切な緊張感を必要とするものだ。目の前に迫っていることにこそ、目指す価値を感じられる。長期的な目的は、短期的な目標を一つずつ達成して積み上げた先に気が付いたら到達しているという在り方がふさわしい。

――つまり、人生を長期的な計画として考えた場合、「生きる意味」と言う時、それは生きている過程で用いられるはずであり、それは長期的な計画のゴールである死を明確にイメージできなければ、目標を決めないまま計画を立てている状態であり、不必要なことである。「生きた意味」という場合、死を迎える準備ができていたとしたら、改めて歩んできた道のりを振り返ることができるため、これは納得できる。

その「生きた意味」があったかそうでないかは、「人間的な幸福」という観点から語るに値するものであり、その人の生き方に直結することである。

その意味および幸福とは、それが社会の要求と一致していてもかまわないが、社会から一方的に与えられたものではなく、自分自身が納得できるもの、つまり真に自己において感じられる幸福でなくてはならない、と僕は思う。


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