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だれかを応援するとき

昔、父親がプロ野球の試合をテレビで見ていた。僕は野球にもその試合にも興味はなかったが、なんとなく一緒に見ていた。これもたしか小学生ぐらいのときだ。父親にどっちのチームを応援しているの?ときいてみたら、どっちのチームも応援していない、と父親は答えた。

正直そのときの自分は衝撃を受けたのだと思う。今でも覚えているのだから。普通スポーツ観戦というのは、どちらかのチームの側に立って勝つために応援するものだと、そういうものだと思っていた。しかし父親の返答から、目の前で勝負が行われているときどちらかが勝つように応援しなくてもいいんだということを知った。

ということで、僕はだれかを応援することに興味がない。ちょっと正確に言えば、全く無かった。応援する人を侮っていすらした。今もだれかを「心から」応援することはないが、だれかを応援している人のことを少し理解できるようになった(つもりだ)。こっそりと父親のせいにしたが、自分の性格のせいだということはわかっている。

だれかの人生はだれかの人生であり、それに自分が関わるとしてもあくまでサブの役回りにすぎず、だれかの応援をする時間があるなら自分のためにがんばるように行動しろよ、ぐらいの考え方だった。

でもおそらくだれかを「好き好んで」応援する人は、応援対象である「だれか」に、やはり自己投影しているのだと思う。つまり相手の姿に自分を重ねているのだ。多かれ少なかれその面は必ずあると思う。好き好んでの場合は。

なぜなら、結局人間興味があるのは自分のこと。完全に自分を犠牲にして誰かのために生きるなんてことはない。自分で自分を犠牲にすることを選んだのであれば、だれかのために自分を犠牲にすることはすなわち自分のためのことであるからだ。

相手の成功を自分のことのように喜ぶ。その時相手と自分は切り離されているどころかもはや一体化している状況なのだろう。それなら応援対象が失敗して悲しんでいるときは、自分も一緒に泣きたくなることが普通だ。

そして、相手に自己を投影し、同一化している場合、おそらく心の内部で起きていることは、結果が出るまでの「過程を一緒に強烈に感じている」ということだ。本気であれば、まさにその選手の人生の過程が、自分の人生の過程のように感じられるだろう。

誰かが自分の人生を評価するときは、ほとんど結果しか見られない。それは当然だ。その人の関心事の中心は自分のことなのだから。つまり、自分の人生を、結果より過程を優先して見ることはできるのは、「自分しかいない」。

その選手が自分のことのように感じられなければニュースでダイジェストで結果だけ見ればいい。それで物足りないならやはり多少なりとも選手と同一化して、過程を重ねて感じているはずである。自分のことのように。

しかし、サッカーのスタジアムで声を張り上げている熱心な応援団的な人が、チームが負けるとその場で選手に罵声を浴びせたりしている映像を見たこともある。これはサッカーに限らず野球でも、昔からある風景なんだろう。

なんで自分が不機嫌になるためにわざわざ応援するのだろう。この時応援対象と自分は切り離されている。なんのために応援するのか?

実はその人も自分を選手に重ねているんだろう。応援対象の選手に、自分を重ねて、罵倒しているのだ。つまり、自分にどこか納得できない嫌悪感を持っていて、自分の中ではそれを解消できず、わざわざ試合会場まで足を運んで、納得できない自分に悪口を言っているのだ。選手を罵倒するという形で。もちろん自立や内省ということができる状態であるはずもない。

応援するということは、誰かに興味を持っていることであり、同時に自分に興味を持っていることと同じなのだ。投影し、一体化するという形で。でなければ応援するということ自体に興味を持てるはずがない。

スポーツに限らず、応援している相手を口汚く罵っているとき、それは誰に向けられたものなのか、その人の様子をよく見てみる。

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