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人間的幸福とは、希望を伴う精神的安定と、自己が納得する形での精神的紐帯の実感が同時に成立していることである

親が子どもを叱る時、子どもを他家(よそ)の子と比較することがある。この親の行動は、子どもの心を少しずつゆっくりと、しかし確実にむしばんでいく。僕自身がそうだった。成績が2位でも、なぜ1位ではないかと言われる。言われ続ける。1位になったとしても、このまえは2位だった、とか言われる。

親がこの行動をとると、子どもの心は「健康に」育たないと思う。つまり、歪む。自己肯定感が持てないからだ。その場合は、家の外で成功体験を積み重ね、「誰か」にほめてもらうしかない。それか、自分自身で自分を褒めるしかない。そんなことを日常的にしていたら、内向的な性格になるのは当たり前のことだろう。他人に対する感謝や敬意も持てなくなるだろう。僕は幸いにも、自分の親以外の、つまり他家のお母さんがたに褒めてもらうことはけっこう多かったので、自己肯定感はそこまで低くはなかった。ただ、その他家の子が僕のせいで比較され虐げられていたら、意味ないけど。

とにかく、友達でも、恋人でも、その人の存在を、誰かの「比較対象」として見ているのであれば、おそらくそれはその友達や恋人をすでに「切っている」のだろう。

さらに、相手が比較しているつもりがないのに、「比較されている」と感じているのであれば、それは本人が自己肯定感を著しく欠いているのだろう。病んでいると、発言を拡大解釈して自分が否定されていると感じることは多いと思う。たとえば、恋人が街で見かけた芸能人が写っている広告を見てかっこいいね、とかかわいいね、とか言ったら、自分がかっこよくない、かわいくない、と言われていると解釈する、といったようなことだ。自分に自信があれば、まずそんなことで自分がそう思われているとは感じないだろう。

自己肯定感が低いということは、いろいろなことが悪い意味で「気になる」のだ。つまり、自然に自分自身で自分と他者を比較している状態になっているはずだ。これは自分自身で自分を虐げている構造になっているのだが、病んでいるため、気付かない。それを他者が指摘しようもんなら、自分自身が全否定されていると感じるはずだから、もう自分自身で気が付くしかないということだ。しかしそれができればそのような深刻な状態になってない。

『人間的幸福とは、希望を伴う精神的安定と、自己が納得する形での精神的紐帯の実感が同時に成立していることである』
『ここにおいて、人間的であるとは、親愛なる存在との関係性に敬意を示すことである』

これは僕が昔書いた文の中で表現したことだ。この「人間」とは、前提として、「生きている」ことを表している。人間は、生き物だ。死んでいる人に、「人間的」幸福はないはずだ。そして、人間は、「考える」生き物だ。健康に考えるためには、自分が何らかの希望を持っていることが大事であり、そしてそれは何らかの大切な存在による「支え」とともに築かれるのだと、僕はそう考えている。

明日また続きを書きます。

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