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人生に意味があると思い込むことは、必ずしも人間的幸福には至らない

自分で何かを決めること、その決めたことに責任をもつこと。それにより自信が生まれ、自分の存在を自分で肯定できるようになる。責任を持つということはリスクを引き受けるということである。リスクが現実化した時のその人の向き合い方にこそ、その人の価値が表れる。しかしそのリスクが顕在化した状況が、本人の想定を超えて大きかった時、抱えきれない損害を受け入れなくなった時はどうなるのか…

自己決定が裏目に出た時、つまり自己の決定によって何らかの大きな損失を被った場合、自分の人生に意味を感じられなくなることがある。その時、健康だった自分自身の心は、自分が周囲(社会)にとって価値のある存在でありたいと願う。

なぜなら、自分が存在する必然性が感じられないと、自分は生きていても死んでいても同じであるという結論に達し、何もかもが無意味に感じられるからだ。そこで、生きる意味とは何かと考えるようになることは不自然なことではない。

自分の存在に必然性を感じることは、多くの場合他者から認められたいと考えることや、何かとの繋がりの中で生きたいと思うこと、自己が納得した形で希望を持って幸福に生きたいと思うことと同義であると考えられる。

それは主に人であるだろうが、精神的につながっていると感じられるのであれば、動物や植物でも良いと思う。

もし部分的にでもその幸福が言葉によって語られ得るのであれば、その時の精神状態は「人間」に特別に備わっている理性的側面においてより人間的であると言えるはずだ。

自分の人生に、意味がないと悲観したその先にあることは、具体的な死について逡巡する自己の姿である。だからこそ、生きている過程で人生に意味を見出そうとすることや、生きがいを実感したいと願うことは、生命を維持する上で必然的であるように思える。

しかし、人生に意味があると思い込むことは、必ずしも人間的幸福には至らない。

なぜなら、人生の過程で人生に意味を見出そうとすると、まだ何か「足りない」という感覚を強く伴うようになることがあるからだ。他者との比較の中で、自分にとっての人生の意味がわからなくなる。まだ達成していない「何か」を求めるあまり、強制的に人生を終了させる死を恐れるようになる。死が迫ってくることを受け入れられなくなる――あるいは、その反動で自ら死に向かうこともある――。

社会的立場の中における、他者との比較の中では、自分の代わりはいくらでもいる。自分ではない誰かが自分の代わりの立場に収まり、自分が居たことが無かったかのように時間は進んでいく。そして、自分以外の誰かの代わりも、すでに用意されている。

このように考えると、生きていること自体に意味はないと本当に思えてくる。しかし、それに悲観すること無く、向き合い、自分にとっての今をより良く生きるために「専念する」ことは、かつて死に向き合った自己にとって救済の一過程となりうる。

他人からいくら愚かだと思われようとも、それは「自分の人生」。他人の人生を生きるとは、「自分はそれを求めていないのに、嫌々それをせざるをえない」状況。それが社会的に立派だったとしても、だ。

せっかく生まれたんだ。できれば「人間として」納得してほしい。「生き物」である人間として。

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