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感謝できる存在とのつながりは、良いつながり

こんにちは。夏は暑いので苦手な季節なのですが、洗濯物がよく乾くのがうれしいです。このまえ洗って絞ってないままバスタオルを干してみたのですが、数時間後には乾いていて、太陽すごいな~って思いました。

過去の投稿4回分かけて、だいたい今自分が考えていることの中心は言えたような気がします。けっこう長い間考えてきたことだと思うんですが、文章にしてみるとそんなに長くならないんですよね。自分はあまり長々と話すことが好きではないので、必要なことだけをできるだけ端的に話したいです。

なぜなら、話すべきこと以上に長く話そうとすると、その下心が生まれることによって、根本の隙間から余計なものが入り込んでしまい、うまく内容が伝わらないのではないかと思うからです。書店で本を読んでいても、内容を何倍にも増してページ数だけ増やしている読者に対して非誠実的な商品をしばしば目にします。できれば自分は必要なことを必要なぶんだけ語れたらと思うんです。純粋に自分が思うことを自分の言葉で自由に話せること、これは自分が持っている持ち物の中でけっこうよかったなと思えることです。

なので、実生活では、僕はあまり話をしません。話してもそんなに長く話さないと思います。すごくかっこつけた言い方をするなら、自分の言葉をできるだけ大事にしたいから、とでも言うんでしょうか。たくさん言葉を使うと、それぞれの言葉の持つ価値が薄れてしまい、全体としてだめになってしまうというか、だめな人になってしまう気がするというか。必要に迫られてたくさん話をしないといけない時は、すごく疲れる。

このnoteは、とくに気にせずだれかもう一人の自分に話しているつもりで書いているので、そんなに気疲れはしません。

幸福について――の話ですが、まず自分の中で大事かな、と思うことは、「何かとのつながりをもつ」ことなんだろうなと思います。自分自身は自分の中ではつながりを持たない存在として10代を過ごしてきました。つながりを持たないのがあたりまえだという感覚で生きていた気がします。もちろん友達はいましたが、周囲に人がいるからこそ感じる孤独があるとよく言われるように、幸福的なつながりという意味では実感が持てずにいました。必要がなければ関わりは持たない、関わりを持つ必要に迫られたら必要な程度愛想はよくする、そんなかんじでした。

20代、30代と、様々な人と関わって自分の中で実験を行いながら、なんとなく「自分が納得するつながりはなかなか得られないけど、つながりを持たないと生きてはいけない」という自分の姿を客観的に見た自分がどこかの時点でいた気がします。それからやはり人間は生きていくためには何らかのつながりが必要なんだろうなという気がしてきました。

でもここでけっこう悩んでいたのが、つながりはいろんなつながりとつながっている、ということでした。ひとつのつながりは、連鎖する複雑無数のつながりに広がっていきます。血縁関係でも人間関係でも、なにかつながりはじめたら自分の想像を超えたつながりと結びついていくのです。

それがすべて美しいつながりであれば、世界は幸福に包まれると思うのですが、ご承知の通り、世の中は悪意に満ちています。自分がつながりを大事にすればするほど、悪者とつながってしまう自分を意識せざるをえないことになります。必然的に自分も悪者の要素があるのかと思い自己嫌悪に陥ってしまい……ということになることはないかな、と思いませんか?

そこで自分が最終的にたどりついた結論が、「人間的な」つながりという限定の仕方でした。自分が人間的であれば、人間的なつながりを必然的に持つだろう、と。人間的であることについては、先の4つの投稿である程度述べました。まず生きていること、理性的であること、など書いたと思います。そして、感謝できること、があると思います。

これは、あくまで自分にとって人間「的」であるという話なので、人間ではない と言っているわけではありません。自分の中では、人間的な人間と、非人間的な人間がいるというだけのことです。それによって表面的な自分の態度はそれほど変わらないと思います。ただ自分の中では大別しているはずです。

つまり、人間的であるとはどのようなことかを考えることは、自分にとって人間的な幸福とはどのようなことであるか、を考えることに直接関係するということです。狭い風呂場に軟禁された不幸な5歳の自分に聞かせて恥ずかしくないような幸福論が作れたらいいなと思います。

長くなってきたので続きは後日…


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