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人間的サークルの中に佇みたい

何かとのつながりをもつことによって、自分の気持ちを安定させて、自分の居場所があるということを実感できるという話を前々回していました。ここで、ただ事実としてつながっているだけではだめで、自分が納得するつながりとして、つながっていることが本当に大事なのだと思います。

では、自分が納得しないつながりは、関係がないものとして切断していいのかというと、今の自分はそのようには考えません。なぜなら、今の自分と、未来の自分では、別人である可能性がおおいにあるからです。今の自分にとって無駄に感じられるものが、未来の自分にとって意味を持つことはあるはずだからです。また他者も別の形に変わることはありうるでしょうから、一概に今の時点でこの関係は無駄だと決めつけられるものではないと思います。

なので、他の様々な関係とつながっていつつ、そのつながりが、太かったり細かったりすることは別に悪いことではないのかなと思います。関係の線を切ることは、切られた相手にも心のダメージを与えます。相手からダメージを受けた時、意図的に関係を挑発的あるいは断罪的に切断する方法もありますが、これは復讐を連鎖させていくことにしかなりません。赦しという形で受け入れる方法もありますが、これはただ単に自分が一方的に相手に殴られ続けることをも受け入れることになり、平和的であるとは到底言い難いと思います。

しかしながら、そのようなつながりを持つことを大事にすると、ひとたび生じたつながりは、連鎖となってたちまち広がっていくことになります。ついには世界中の存在とつながっていくことになるでしょう。そしてそれは、自分が世界中の存在とつながっているということの認識につながり、自己の孤独感をやわらげる効果を生み出すことがあるのではないかと思います。

しかし、世界中の存在と必然的につながることを思った時、自己と同じ人間であると到底受け入れがたい悪人ともつながることになります。先祖の先祖の先祖…という連鎖の事態は言うに及ばず、同じ場所にいる、同じものを食べる、同じ身体構造を持つ、そのような広い意味で、悪人とつながらないという人は存在するのでしょうか?

繋がりたくない存在と繋がってしまう自分、その自分を受け入れられないということがあると思います。自分はその時、その存在は人間的かどうかを考えるようにしています。あくまで人間「的」かということで、人間であることを否定しているわけではないです。

自分が人間的である以上、人間とつながる以前に、人間以外を含めた人間的存在とつながるというフィールドで自分の存在を肯定することは不自然なことではないと考えます。

人間的であるということはどのようなことか、ということは、先の投稿で述べていますが、まだ言葉足らずな面があるような気がしています。ただまず大事なこととして、他者との関係に感謝ができることはまずあると思います。

傲慢な人間が人々と親密な関係を築けず最終的に破滅したり、気づかないうちに除外されていく事例は歴史的にも数えるまでもないと思います。つまり、わざわざ言語化するまでもないレベルで、私達は相手が感謝の気持ちと謙虚さを持ち合わせているかどうかを計っているのだと思います。なぜなら、感謝とは、謙虚さとは、他者を受け入れるスペースを私は持っていますよ、というメッセージでもあるからです。傲慢さとは、自分の持っている容器が自分のことでいっぱいであるということを示しているということなのです。

誰かとつながるということは、誰かが入り込めるスペースを自分の心の中に置いておくこと。陳腐な結論になりましたが、自己を肯定し、自己の精神を安定させるためには、自分のことだけを考えていてはだめなのです。

そういう意味で、おそらく悪人は、自分のことだけを考えているはずです。誰かのために悪を働いているとしても、それは結局正当化であり、被害の大きさを考えていないはずです。というより、悪という毒ガスが人間を自分のことしか考えないように薬物的にそうさせるというのか。

そういうわけで、悪人は感謝と謙虚さをもって相手の話をきく余地をもち、他者の幸福を願う心性を持たないという点で、人間的ではない。なので、自己の精神を安定させるために人間的枠組み、人間的サークルの内側にはいない。繰り返しますが、それは悪人を人間ではないと言っていることではない。

人間的な存在とつながることが、自分を人間的に安定させるために重要。人間以外にも人間的である存在はあると思います。街の風景に溶け込んでいる、風に揺れる葉や、公園のベンチ。非人間的な人間より、自分を受け入れてくれる存在です。人間的であるとは、他にどのような条件があるのか。また考えてみたいと思います。

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