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マイペースという言葉の功罪

マイペースという言葉は、日本語としてすでに馴染んでいると思います。そのような性格だと言われたこともある人もいれば、自分はマイペースだと自覚している人もいると思います。でもこの言葉は、個人的にはちょっと注意が必要な言葉なのではないかなと思っています。

まず、マイペースという言葉が、その人自身から発せられること自体が、自由な世の中になっているということを示しているように思われます。人間関係がとても固定されている社会では、自分がマイペースであることを許しません。我慢してでもその場の「空気」に合わせることが要求されます。自己紹介としてマイペースという言葉を紹介欄に載せられること自体が、ほほえましいことであると感じます。

ただ一方で、マイペースであることを他者に向けた自己紹介として発表することは、私は自分のペースで動きます「だから周りには積極的に合わせることはしません」と言っていることも意味します。それが行き過ぎると、「自己中心的」となり、とてもではないですが自己紹介で言える表現ではなくなってしまいます。他者に迷惑をかける表現になってしまうからです。

しかし、マイペースという言葉はその行き過ぎる可能性を巧妙に包み隠してくれます。マイペースだとほんわかしたかんじでストップしますが、個人的な実感としては、マイペースであると自らを表現する人が、相手の状況や大事な依頼に合わせず、極度に個人主義的であることはしばしばありました。

また、社会性という観点から見ると、相手に合わせることが多く要求される社会では、「他者から見て」ということが優先されて考えられることが多くなると思います。そこであえて自分を「マイペース」であると、「他者に合わせない可能性がおおいにある人物」であるとわざわざ発信することはデメリットが多いと思いますので、自分からそのように言ってしまうことに不安を感じてしまいます。

ただ、もちろん僕はマイペースであること自体を否定しているわけではありません。むしろ、世の中の人間は本来全員マイペースなのではないですか?自分のペースを持っていない、あるいは完全に持てない人は、自分の人生を生きていないのではないのですか? 幼い時から、自分のペースを押し殺して誰かの顔色を窺い続けて生きてきた人がいたとしたら、それはあまりにも多くの可能性の芽を摘んできてしまったといえるのではないでしょうか。

だから、誰かに対してマイペースだと断定するような言い方をする人も、僕はとても警戒します。その人自身も、他の誰かから見たらマイペースに見えるはずであるのに、それを自覚せず、自分以外の誰かをマイペースだと言っているわけです。これは、ほとんどの場合悪意を持った言い方であると思います。「相手に合わせることができない人」(相手というより、「みんな」であり、「俺」であることが多い)というレッテル貼り、悪口、マウンティングに使われる言葉であるように思います。もちろんそう言っている人自身にその自覚はないでしょうけれども。言っている本人もマイペースな面は必ずあるはずなのに。

つまり、それぞれが「ほどほどに」マイペースであるのが、息苦しくない社会であり関係であるような気がするわけです。マイペースであることは、決して悪いことではないと思います。すべてを相手に合わせる必要はないからです。自分を大切にすることが、自分が生きて行くために大事なことだからです。

マイペースという言葉は、自分から発信するのでもなく、他者に向かって投げつけるのでもなく、自分の中でひそかに持っていて、「今自分はマイペースすぎてないかな?」と自分に問いかけるものさしとして使うのが、一番良い使い方なのではないかなと思います。



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