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「無知のヴェール」に対する私見

昨日の話の続きになることです。

「無知のヴェール」っていう考え方を知っていますか。ロールズという哲学者が提示した思考実験なんです。もし自分の立場が分からないまま、例えば記憶喪失の状態で、自分が誰だかわからない、どんな仕事についているのか、健康な身体なのか、家族がいるのかもわからない状態で社会のルールを決めるとしたら、誰にとっても平和的なルールを決めるのではないかという考え方です。

つまり、自分が有利な立場にいることを自覚した人は、おそらくバイアスもかかり、自分がより有利になるようなルールを決める。しかし自分が何者かわからない状態であれば、つまり不確定要素が多ければ多いほど、中間に近づくルールを決めるようになるだろう。 おそらくそうだろうと僕も思います。つまり、まず生命の維持が確保されて、次に人間としての幸福が求められる。つまり、「所得の平等」が達成された後に、「機会の均等」が達成されることを目指すように必然的になっていく。

僕がこの時思うことは、この「無知のヴェール」という考え方は、「公平さ」ということを本気で考えるなら、「自分が何者か自分でわからない」「記憶喪失の状態になっている」ということを「想像」できないといけないということを示唆しているということです。

また、「記憶喪失」でありながら、この人は「ルールを決めようと」しています。ルールを決めるという行為は、本質的に権力者の行いです。なので、思考実験でありながら、現実の世界で「ルールを決めたことがある」人にとって想像しやすく、おそらくすでにある一定以上の恵まれた生活をしている人にこそ響く内容になっているわけです。自分が経験したことがないことも想像はできるが、自分が経験したことのほうが、より鮮明に深く考察できる可能性があると考えられます。

そして、「想像」するということは、強い論理的思考力を必要とします。想像するということは、仮の状態を思考することであり、それには様々なバリエーションを伴う要素を適確に組み合わせていく力が必要になります。必然的に高い言語理解能力が必要となります。

権力者とは別の観点から見れば、「言葉の力を持った人」であることが多いと思います。言葉を自在に操り、状況を変えていくことができる。様々なことを高いレベルで「想像できる」ということ自体が権力を必然的に持つことになると言えそうです。

つまり、この思考実験は、実際は現実世界ですでに恵まれた人に対して向けられている。

おそらく現実世界でルールを決めたことが無い人や、多少なりともお金を満足に使ったことが無い人は、自分以外の人のために何かをしてあげたいという発想に至らないと思います。だって自分のことでせいいっぱいな状態なわけですから。

社会のルールを決めるということは、自分以外の誰かも納得する、利益がある、そのような他者視点のある人でしかできない、してはいけない行為であるはずです。裏をかえせば他人のことを考える余裕がある人が、自分以外の誰かのことを想像してルールを作ることができる。 貧すれば鈍するという言葉があります。

日本の権力者のみなさん、日々の様々なニュースを見ていると、欲求階層説に基づいた無知のヴェール的な思想に沿う世の中になっていっていないように感じます。僕の勘違いなら良いのですが。

死んだら今持っているお金は無意味です。自分が死んだら自分にとっての世界はおそらく無になります。今持っているお金は生きたお金ですか死んだお金ですか。自分が今まで一人で生き、財を成してきたという考えを否定できるのであれば、目の前のあなたのお金はどの環境に帰っていくのでしょうか。


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