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自分の人生の過程の価値をだれかにわかってもらえることはない

いまの時代、単語レベルの知識はもちろん、人生のモデルケースなんてのもネットで検索したら簡単に出てくる。もっと細かい内容も、より時間をかければいろんな人が出した答えを知ることができるし、それに至るまでの議論の様子も探して見ることもできる。

要するに、昔の人が自分で発見するしかなかった答えを、別解含めてすぐに調べて知ることができる。言い方を変えると、自分が始めるまでもなく前に始めた人が死というゴールをもってある一定の答えに達し、それを残してくれている。ありがたいことだ。

だから、こういうふうにしたら最終的にこうなるんだな、という知識を、我々はいろんなパターンの形でよく知っている。その中から生き方を選び、モデルケース通りに生きてそして死ぬことはできる。

ただそれって、本当に機械みたいに決められた通りのシステム的な生き方で、なんかつまらない。答えを知っていることをいまさら同じことを繰り返すことに意味はあるのか?

最近の自分の中の一つ考え方としては、「答えは知っているけど、それを証明する方法が自分の中にない」ということだ。おそらくこうなるんだろうなということは調べたうえで知っている。また、それに至るプロセスもだいたい想像がつく。でもそれを自分は経験していない。自分が経験していないことは、あくまでも想像であり、一定以上の説得力を持たない。これはどちらかというと東洋思想的な発想だと思う。

客観的な理屈ではなく、自分の実験的経験からでしか語れない根拠。経験した人にしか語れない雰囲気というか、やはり細かい部分から感知する誠実さというか、何を質問されてもいいよという自信ということを感じるということはあると思う。

だから、答えを知っている自分の人生設計のゴールの姿だとしても、それを確かめられるのは自分しかないと思う。なので、生きるということの一つの姿としては、「わかっている答えの過程を確かめること」なのではないかと思う。わかっている答えの最終地点はもちろん死。生きて死ぬまでのありとあらゆる過程を、私たちは知ることができる。様々な歴史が物語っている。

でも自分の人生の過程を本当の意味で確かめることができるのは自分しかいない。

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