見出し画像

トマトスライスの魅力

トマトの鮮やかな色とさわやかな味わいは、他に代えがたい魅力がありますよね。健康にもよくて最高です。

よく家でトマトを切って食べます。トマトスライスです。トマトを切るだけです。

だけど、ひとりで居酒屋(立ち飲みが多い)に行ったときでもついトマトスライスを頼んでしまいます。マヨネーズなんかが添えてあります。家でも同じようにマヨネーズや塩につけて食べます。しかしなぜか、居酒屋で提供されたトマトスライスは家で自分で用意したトマトスライスよりおいしく感じます。これはなぜか自分なりに考えてみました。

まず居酒屋で提供されるトマトスライスの価格です。だいたい350円ぐらいします。場合によってはトマト半個分で提供されることもあります。スーパーで買ったらトマト1個で100円から150円。つまり店で提供されるトマトスライスにはそれだけの価値があると考えるべきです。もちろん人件費やら何やらのトマトスライス自体の価値以上のものがそこに含まれていたとしても。

これは、よりトマトを客においしく食べさせるための工夫の価値だと僕は思います(思いたい)。まず、自分で作ってて思うんですが、「おいしい」トマトスライスを作るには、意外に手間がかかります。トマトを「新鮮な状態」で保管しておかなければならない。ひやっひやのトマトスライスでなければおいしくないので温度管理も大事。

そして、自分でトマトを買った時は、自分でトマトを切らないといけない。この手間が、大人になって経済的な余裕ができて自分で何かをするのがめんどくさくなった大人には苦労なんですよね。つまり「めんどくささ」が同じトマトであってもその手間が増えるぶん、おいしく感じなくさせるんですよ。

つまり自分が切っている時点でもう食べることまでの距離が生まれてしまうんです。トマトを食べている自分に至るまでにトマトを切る自分を経由しなければいけなくてそれがもうめんどくさいんです。自分を何回も挟みたくないんですよね自分に。

つまり純粋にトマトスライスを食べられない自分と向き合わざるをえなくなる。自分が最も自分らしくトマトスライスを食べている状況というのは、自分や他の人間ではなくトマトに向き合っているときだということなんです。トマトを食べている空間も清潔であり、ほどよく自分の生活感から少しズレがあればより楽しい。だから基本的に誰かと食事をともにすることはあまり好みません。トマトに集中できないですからね。食べたいときにすぐ最高の状態で食べられるってすごく幸せじゃないですか。

店で出されるトマトは、品質管理、即時性、商品としての責任信頼など、「ただトマトを切るだけのこと」であってさえも、自分が家でトマトを切ることとはまた違う次元の価値が生まれているといえます。包丁の切れ味からして、家とは違います。切れ味がするどい包丁なら、トマトの触感も、よりシャキっとします。その包丁も、いろんなものを日々切っているわけですから、良い状態を保つには丁寧さが求められます。

ただトマトを切るという単純なことでさえ、裏にこれだけの事情の違いがあると思います。この価値の違いはわかりづらいし、この一見見えない差は実はすごい大きな差だと思います。

そしてさらに付け加えたいことは、店でトマトを切ってもらった時、その切った人への「尊敬(リスペクト)」があれば、よりトマトをおいしくかんじられるのではないか、ということなんです。

トマトスライスは、ただトマトを切っただけです。やろうと思えば小さい子供でもできる。でも、その裏にはけっこうたくさんの準備があるはずなんです。やはりそれを丁寧にできるのはプロの仕事なんだと思うのです。

ただトマトを切ることのすごさに気づき、トマトを自分のために切ってくれるということに感謝ができることにより、より自分が癒され、ありがとうという思いに満たされる。これがただ野菜を切っただけのことをおいしくさせると思うんです。このような心のあり方は、より穏やかに、よりリラックスした状態で食事を楽しむことにつながると思うのです。つまりこれは「人間的」な状態に通じてくるのではないかと思うのです。

自分にできないことを素直に尊敬できるということは丁寧な人間関係を結んでいく上で大事なことだと思います。単純なことほど、そのすごさは見えづらい。店で頼むトマトスライスという存在は、その困難さを表しているように感じています。これは巷でいういわゆる「情報を食べている」という考え方とは異なることは哲学的考察を理解する読者ならわかると思います。

しかしじつは器のチョイスや盛り付け方にもその人のセンスがはっきりと他の人がつくったトマトスライスとの違いとして表れてしまう。そういう意味ではトマトスライスってごまかしがきかないすばらしい料理だと感じてきます。単純であればあるほど、比較したときその裏の顔の姿は、はっきりと表れてくる。

そういうわけで、僕は自分でプロが作るトマトスライスを作れるようになるより、料理人がつくった目の前のトマトスライスの価値を理解し、その自分の価値観を自分で信頼できることがいちばんおいしく食べられる秘訣だと思うのです。だって、自分でプロと同じレベルでトマトスライスを作れてしまったら、おそらくそのプロの技術を軽視してしまう。自分でもできるからね ってね。そういうことを思いながら今日も家で手抜き料理を作る毎日です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?