見出し画像

ハードボイルド書店員日記【86】

いまだ両目は閉じられている。

だが意識は目覚めた。すでに外界を認識している。前世と繋がりながら新たな命を授けられた何かのように。

大学3年の夏、英語のディスカッションテーブルを進行する役に就いた。あの日の朝と似ている。極度の緊張感が眠りと覚醒を両立させる。

「来月から午後便がなくなります」

朝礼で店長から告げられた。当日発売の雑誌、新刊、さらに売れたものと注文したものを併せた補充分がすべて朝に入荷するようになると。驚くには値しない。一部の大型店を除けばどこもこのシステムである。私は他の書店で経験済みだし正社員もそうだろう。だがアルバイトは露骨に浮き足立っていた。不安になるのもムリはない。ただでさえ人手は足りていないのだ。

鳥瞰する余裕は数分後に砕けた。

「30分早く来てコミックの新刊を出して欲しい」頼まれた。シフトの関係上、担当が朝不在の日がたまにできてしまう。その時だけお願いしたいと。仕事における「たまに」は曲者である。慣れた内容ならまだしも、未知のジャンルにおける場合はなおさらだ。スキルや経験の積み方がどうしても断続的になる。

仕事の合間を縫って担当者たちとコミュニケーションを取った。人によって考え方が違うのは当然だから「○○さんはこう言っていたけど」みたいなことはなるべく口に出さない。そして頭ではわかっていたことだが、膨大な数のルールが存在した。棚への面陳の仕方、エンド台への積み方、送られてきた特典をストックしている場所、印刷してあるはずのペーパーが見当たらない若しくは数が足りない場合のPDFデータの入手法、シュリンクする際の細やかな注意点、どの本をどれぐらい注文したか(満数入荷するとは限らない)が記されたリストの所在……

午後便がなくなったことで仕事の増えた人や出勤時間の変わった人がいる。これまで通りの人もいる。誰もいない事務所で古株の契約社員が「黙って引き受けていると、何でもかんでも押し付けられますよ」と注意してくれた。彼女は客注担当と文芸担当を兼ねている。笑って礼を述べておいた。誰かがやるしかない。

そして今日。新しい体制の初日を迎える。

意を決して目を開けた。カーテンを通過してくる光の量が少ない。スマートフォンを開いた。4時35分。そんなところだろう。まだ2時間近くある。寝られないのはわかっている。起き上がってPCを起動させた。「眠れぬ時間は小説の神がくれたプレゼント」なのだ。

十年もののパソコンが覚醒に時を要する間、脇へ積んであった分厚い本に手を伸ばす。「ひゃくえむ。新装版 下」だ。「チ。―地球の運動について―」で時の人となった魚豊(うおと)の連載レビュー作である。

何気なく開いた。あるキャラクターのセリフに目が留まる。「不安とは君自身が君を試す時の感情だ」「目を逸らすな。君のやりたいことはなんだ?」数日前に読了済み。ここに書かれていると知っている。知っていたはずだ。

一度閉じ、大きく息を吸って吐く。考える前にまた無造作に開く。「無上の目標が毎々鎮座してんだ!」「全く! 人生に! 飽きないッ!!」

無上の目標。目ヤニを弾き出して視線を横へずらす。モノ言わぬ液晶画面。活字で埋められることを待つ真っ白なnoteが静かに控えている。

俺は小説家になる。紙の本を出す。書店員として本を書き、入荷したら棚に並べ、売る。何のために? 読む人の今日を昨日よりも幸せにしたい。嘘偽りのない本心だ。誰かの何かのために少しでも自分の文章を。でもそれだけじゃない。足りない。全然足りない。

俺のため。そう俺自身の喜びのためだ。人生を引っくり返したい。間違っていなかったと証明したい。俺は勝ちたいんだ。弱気な自分にも愚弄する他人にも。

この不安は武器だ。創作の題材になるし書店員としての幅も広げてくれる。またアイツのいつもの意地悪なプレゼントだ。「まだまだ安住なんてさせねえよ」ってところか? 上等。せいぜいうぬぼれてやるさ。「選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり」ってな。

そう、これが俺のやりたいことだ。

この記事が参加している募集

#推薦図書

42,566件

作家として面白い本や文章を書くことでお返し致します。大切に使わせていただきます。感謝!!!