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ハードボイルド書店員日記【67】

「納得できません!」

彼は珍しく声を張り上げた。開店前とはいえ仕事中。仕入れ室の中だから一定の配慮はされている。事務所は目と鼻の先だ。

「どう考えてもおかしいです。だってぼくの方があの人より15分は早く出社しているし、たくさんの荷物を開けています。早く終わらせて自分の仕事をしたいから。あの人がひとつ開ける間に三つは開けています。ダンボールもひとりで片づけています」朝礼が終わり、諸々の準備がひと段落した朝10時の数分前。「あの人」も店にいる。

「なのに、あの人がぐずぐずしていて終わらないのを『最後のゴミ出しまでちゃんとやってから自分の仕事をしろ』とぼくが注意される。意味がわかりません。せめてゴミ出しぐらいは全部やらせないと不公平でしょう。適当にダラダラやったモン勝ちですか? 被害者面して偉い人に泣き付いたモン勝ちですか? できないフリして周りに働かせて自分だけラクをして同じ給料をもらうのはおかしいです」

私より少し後に入った契約社員である。普段は温厚でよく笑う。口数も少ない。よほど溜め込んでいるものがあったのだろう。俺じゃなくて店長に言えよという自分にとっての正当な返しを私はマスクの奥で飲み込んだ。話を大きくしたくない大人の態度と納得できない心の不満がバランスを求めた先にたまたま私がいたのだ。

「店長は別の業務をしていて荷開けをしないから、開店前に誰がどれぐらい働いているかを知らないんだよ」「ですよね! ちゃんと見た上で言って欲しいですよ。先輩だって陰でいろいろ頑張っているのに店長は把握してないでしょう。あの人が児童書と辞書の品出しを全然しないのをいつも手伝ってるじゃないですか」「それは別に」「いやいや! 謙虚過ぎますよ。やってない奴にやらせるのは当たり前。本質を視ずに目の前の光景を己の尺度で判断するだけでいいなら、管理職なんて学生でもできます」理系の院を出たインテリだからか話が理屈っぽい。だが間違ってはいない。

「あー、やってられない。やる気出ない」「まあなあ」こういうケースこそ本の出番だろう。文庫が載ったスチール棚に目を向ける。ある一冊が目に留まった。手に取り、曖昧な記憶を頼りにページを捲る。「何ですかそれ?」「立川談春『赤めだか』だ。落語を聴いたことは?」「ないです」「俺も。だがこれは面白い。人生の不条理について教えてくれる」「そうですか」不機嫌な返答。彼は己の都合で私の働く時間を奪っている。お客さんが来る前の貴重なひと時を。その点では「あの人」が彼にしていることと変わらない。そこまでは気が回らないのだろう。

「たとえば20ページ。『人間って極限まで追い詰められたら他人のせいにしてでも云い訳しちゃうものなんだ』」「極限まで行かなくても他人のせいにしますよね」「その人にとっては極限なんだ。あとはここ。『修業とは矛盾に耐えることだ』」「ああ仕事もそうですよね。生涯を通じた修業っていうか」少し身を乗り出してくれた。

「そもそも最初がいいんだ。著者は競艇選手に憧れていたらしい。『競艇はインの方が勝ちやすい、それはわかっている。でもみんなインコースからじゃレースは成り立たない。俺はアウトでいい』」彼は顔を上げ、無言で私の目を見た。「俺は『みんながラクして生きるなら俺は別のやり方で幸せを掴んでやる』という意地を感じた」「ちょっと見せてもらっていいですか?」文庫本を受け取り、じっくり黙読している。天の岩戸に籠った天照大御神を引きずり出すアメノウズメの心境だった。

「この本買います」「そうか」「ぼくもアウトで生きてますから。大学院まで出て本屋の契約社員なんてあまりいないでしょ?」「たしかにな」「自分なりの理由はあるんです。弁護士のカストロや医学生のゲバラがゲリラへ身を投じたことの意味。危うく志を忘れるところでした」「たまには忘れよう。それも落語の教えだ」途端に彼はニヤリと笑った。「先輩、ぼくと似てますね」「そうかな」「落語の何を知ってるんですか?」「何も」「同じです。ぼくもキューバ革命や本屋の事情なんて何も知りません」互いの自信がおかしくて大いに笑った。開店1分前のアナウンス。我々は先を争うように勢いよく売り場へ飛び出した。

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