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ハードボイルド書店員日記【179】

「使えますか?」

平日も賑わう春休みの午後。鼻の奥と眼球がムズムズする。カウンターを出て文庫エリアの前を通り過ぎる際、中学生ぐらいの小柄な男性に声を掛けられた。赤いリュックを背負っている。自治体から配布されたであろう「図書カードNEXT ネットギフト」の大きな紙を差し出された。

「ご利用いただけます」
「この部分だけでも?」
四隅に印刷されたQRコードを指で差す。
「はい。ただレジの機械がなかなか読み取ってくれないことが多いので、保険としてIDとPINコードもあった方が。それがわかっていれば直接打ち込んで引き落とせます」
「わかりました。ありがとうございます」

品出しを続けた。仏像のデザインにフォーカスした本が宗教・哲学書のブックトラックに混ざっている。たしかに紛らわしいが、これはウチの店だと芸術書の扱いだ。担当じゃないけど差しておくかとコーナーへ向かう。棚の前に先ほどの男性がいた。ブツブツ呟きながら細い首を傾げている。

「何かお探しですか?」
「あ、さっきの。岡本太郎さんの本は」
「単行本だと、こちらの棚に出ているものだけでございます。あとは文庫でも」
「文庫はだいたい読んだので」
思わず顔を見てしまった。私が彼ぐらいの頃は「岡本太郎=芸術は爆発だ」程度の認識だった。

「お店にないものはお取り寄せを承りますが」
「実は図書館でチラッと見ただけなんです。タイトルを覚えてなくて」
「見た目どんな感じでした?」
「え、それでわかっちゃうんですか?」
「頑張ってみます」
「その、ハードカバーだけど小さなサイズで。ヨシタケシンスケの絵本とかにありそうな」
「なるほど。他には?」
「あまり分厚くなかったです。表紙はクリーム色、かな。赤い帯に黒い文字で『第2弾』と印刷されていたような」
頭のなかで豆電球に光が灯った。
「カウンターまでよろしいでしょうか?」

「この本ではないかと」
レジ横に置かれたパソコンのキーを叩き、小学館クリエイティブから出ている「これから 岡本太郎の書」の表紙データを見せた。
「まさにこんな感じでした。太郎さんの遺した『書』に文章が添えられてるんですよね?」
「仰る通りです。『ドキドキしちゃう』に続く第2弾なので、おそらく間違いないかと」
「すごいなあ。あんな話で特定できるなんて」
すごいことなど何もない。たまたまこの本を昔から愛読しているだけだ。そう告げたら「愛読してるんですか!」と仰け反った。岡本太郎を読む人に初めて出会ったらしい。

「ただ申し訳ございません。あいにく当店には在庫が」
「そうなんですね。どんな言葉が書かれてるか気になるなあ」
「少しだけ覚えてます。たとえば」
記憶の底を掘り起こす。たしか15ページ。青い紙にこんな文章が印刷されていた。

「どうして芸術なんかやるのか。創らなければ、世界はあまりにも退屈だから創るのだ」
「惰性的な空気の死毒におかされないためにも、人間は創造しなければならない」

「しどく?」
「デスにポイズン」
「……ああ」
かすかに笑う。最初は中学生に見えたが、あるいは高校生かもしれない。似たような外見でクレジットカードを出す人がたまにいる。引き落としていいものか悩ましい。

気がついたように顔を上げた。
「書店で働く人って、売る本の内容を覚えるんですか?」
「置きたい本だけを扱う個人経営の店主なら、そういう方もいらっしゃるかと。私の場合はただ太郎さんを好きなだけで」
「いいですよね。『自分の運命に楯を突け』とか」
「あれも名著です。迷う背中を押してくれるし、心がガッと燃え上がる」
「そう! ホントそうなんです!」
もし彼が成人していてここが居酒屋だったら、朝まで盛り上がったかもしれない。

結局注文にはならなかった。まず「ドキドキしちゃう」を図書館で見てみるとのこと。その状況でなぜ第2弾に惹かれたのか興味深い。
「不思議な引力を感じる本との出会いは貴重です。ぜひ」
力強く頷いてくれた。

最後にこんな話をした。
「太郎さんは絵を描く人だけど、ぼくはその、できれば小説を」
「いいですね」
「どうすればなれるかわからなくて」
「その答えは『これから』の16ページに」
「マジすか!」
楽しかったです、また来ますと帰っていった。芸術書担当に「ドキドキしちゃう」と「これから」を仕入れるように頼んでおこう。

小説を。私も同じだ。いまも昔も変わらぬ願い。ならばどうする?

「今すぐに、鉛筆と紙を手にすればいい。それだけだ」

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