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ハードボイルド書店員日記㊹

「手伝いますよ」

昼の二時過ぎ。明日発売の雑誌の梱包を開けていると、実用書担当の女性が仕入れ室に入って来た。「ありがとう。助かるよ」「どれから開けましょうか?」「その辺の付録がないやつを」「わかりました」

梱包からバラした雑誌を五冊ごとに向きを変え、台車へ積んでいく。地味な作業だ。自ずと雑談が始まる。「今度、東京五輪に関連するスポーツノンフィクションのフェアをやろうと思って」「いいね」「オススメの本、ありますか? 文庫でもいいですけど」その相談をしに来たのか、と思った。「そうだね」挟み込む付録の種類と数を間違えないように注意しつつ考える。

「やっぱり沢木さんかな」「沢木さん?」目を見開いて首を傾げている。若い女性には馴染みのない作家なのか? 私が学生のころは海外旅行に憧れる同級生は男女問わず「深夜特急」を一度は手に取ったのに。

「沢木耕太郎さん。知らない?」「名前しか」「『オリンピア1996冠』って文庫が最近出たんだ。リニューアルだけど」「読んだんですか?」「いや、まだ」嘘をついても仕方ない。読んだことにした方がカッコよく話せるが、目的はそこではない。

「96年ってことは……」女性社員が目を細めてベージュの天井を見上げる。書店員が売りたい本について考えるのはいいことだ。ついでに手も動かしてもらえたらもっとありがたい。「アトランタですか?」「正解」「その裏側みたいな」「うん。スポンサーとテレビ局が牛耳る近代オリンピックの実態を」「そういうのはお客さんも知りたいですよね! 私も興味あるし」ここが彼女の長所だ。「売れる」「売れない」が判断基準として優先されるケースは当然ある。だが常にそれでは仕事も棚の構成も画一的で味気ない。個人の色が出過ぎても鼻につくが、店員の熱や好みを感じ取れない本屋は致命的につまらない。家で簡単に買える分だけアマゾンの方がいい。

「沢木さんってそういう本をよく書かれるんですか?」「そうだね。東京オリンピックで銅メダルを獲った円谷幸吉選手のことも」「え、タイムリーじゃないですか。なんていう本ですか?」「文春文庫の『敗れざる者たち』」彼女はエプロンのポケットから表紙がピンクの手帳を出し、メモを取った。「他には?」「スポーツものなら『一瞬の夏』が名作だね」「どういう話ですか?」「『いつかいつか』の物語」「うわ、めっちゃ気になる!」「仕事で重大なミスをして行き詰まりを感じていたルポライターの”私”が、一度は離れたボクシングで頂点を目指す決意をしたカシアス内藤と再会し、彼の夢に己の想いを重ね…」

ふと気づいた。完全に作業の手が止まっている。互いに苦笑を浮かべ、話は唐突に終わった。

全ての荷物を積み終えた。私は自分の棚に品出しをしないといけないし、彼女はレジの時間だ。「最後に沢木さんの本でいちばんのオススメは何ですか?」いちばん? ひとつに絞るのは難しいし意味がない気もする。でもあえて、と訊かれれば。

『バーボン・ストリート』」「それもスポーツ選手の?」「いやエッセイ集。スポーツに限らず音楽とか映画とかいろいろ。文章が抜群に巧い。無駄がなくて自然体。カッコつけてないのが最高にカッコいい」「いろいろありがとうございました」一礼して彼女は仕入れ室を出た。

後日スポーツ書のエンド台を見て足が止まった。展開していたのは「東京五輪フェア」ではなく「沢木耕太郎フェア」だった。さすがに「深夜特急」「テロルの決算」はなかったが、「オリンピア1996冠」「オリンピア1936ナチスの森で」がツートップを形成し、「敗れざる者たち」「一瞬の夏」そして写真集の「カシアス」が中央を占める。その下段にボクシング小説の「春に散る」となぜか「バーボン・ストリート」が控えていた。

「先輩おはようございます。どうですかこれ」文字通り満面の笑み。私のマスクの下と一緒だ。「俺は好きだよ、こういうの。担当者の熱が伝わるから」「でしょ! 私、すっかりハマっちゃいました。あんな素敵な文章、読んだことない! 今日から”サワキスト”って読んでください」「サワキスト?」「村上春樹さんのファンを”ハルキスト”っていうから」らんらんと目を輝かせている。私まで仕事への意欲が沸いてきた。カシアスの熱に触れて本来の己を取り戻していく”私”のように。

「春樹さんは”ハルキスト”よりも”村上主義者”の方がいいみたいだよ」という野暮な一言を飲み込み、「あとで買いに来るよ」と親指を突き立てた。負けてられない。私も熱いフェアを考えよう。



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