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ハードボイルド書店員日記㉚

かつて清少納言は「枕草子」の冒頭に「春は、あけぼの」「夏は、夜」と記した。現代の書店員に転生したら「春は図書カード」「夏はダイエット本」と書いただろう。だがいずれも他の時期に全く動かないわけではない。秋の早朝や冬の夜も決して悪くないように。一方で、この季節限定で爆発的に売れる本も存在する。

「すいません。これを探しているんですが」
母親と娘の二人連れだ。母はフレームの細い眼鏡をかけてピンと背を伸ばし、中学生らしき娘は背中を丸めて欠伸を噛み殺している。母親からA4の紙を渡された。「授業に必要な教材リスト」が横書きで印刷されている。長い人差し指の先に「全訳古語辞典」(三省堂)とある。

「三省堂の全訳古語辞典は『全訳読解古語辞典』と『全訳基本古語辞典』の二種類が存在します。前者の小型版を入れれば三種類ですが」「え、そうなんですか? 困ったわね。どっちにする?」娘さんは首を捻るのみ。しばらくして「小型じゃない方が」と蚊の鳴くような声でつぶやいた。「かしこまりました」

「お待たせ致しました」棚から両方を持ってきた。「こういう場合、どこで判断するとかってありますか?」眉をひそめながら母親がページをめくる。「色が入っていると見易いですね。あとはイラストの説明があると理解が進みます」「なるほど。でもどっちも似たような感じね。どうするの? あなたが使うんだから自分で決めなさいよ」「うん」すでに午後一時を回っていたが春休みでまだ寝起きなのかもしれない。「早く。ほら他のお客さんもいるんだから」眉間の陰が濃度を増していく。

「あとは、、ぬめりですね」「え?」娘さんが顔を上げる。まぶたは腫れぼったいが目は母親よりも大きい。「辞書を選ぶ際にいちばん肝心なことは何だと思いますか?」「…重くないこと」「あとは?」「めくり易いこと、かな」「そうです。そのために薄くて破れにくい紙が厳選されて使われているのですが、特に重要なのは指で触れた時の『ぬめり』なのです」母親の前に置かれていたふたつの辞書の角度をそっと変えた。「どうぞめくってみてください。『ぬめり』を強く感じたものを選んでください。その方が辞書を引くのが楽しくなって勉強も進むはずです」

娘さんはふたつを無言で何度かめくった。やがて「あ、本当だ。すごいぬめる」と白い歯を見せた。

「ではこちら、お品物になります」「書店員さんってさすがね。紙の『ぬめり』なんて普通は考えもしないわ」母親の眉間のしわがいつの間にか消えている。「いえ、実は小説に書かれていたことの受け売りでして」「小説?」「三浦しおんさんの『舟を編む』です」「あ、それたしか」娘さんが友達らしき名前を挙げ、その子の好きな本だと目を輝かせた。「どうする? 読んでみる?」「うん!」「かしこまりました。すぐにお持ち致します」

「辞書って、この時期か広辞苑が改訂されたときぐらいしか売れませんよね」レジに並ぶ列が途切れる。横にいた学参担当の契約社員に話し掛けられた。「そうだよ。一般人が辞書を買う機会なんて一生に何度もない。本の世界における家みたいなものだ」「だから慎重に選ぶわけですね。ぼくも『舟を編む』読もうかな」「いまさらだけど、感想をPOPに書いて辞書のフェア台の隅に積んでみる?」「やってみます!」

そこそこ売れた。「コロンブスの卵だ」と愛書家のSNSで紹介されたらしい。コロンブスが卵を立てた最初の人とは限らない。例の娘さんが後日「枕草子」の岩波文庫版を買いに来たことの方が重要だった。岩波版には訳がついていない。ぬめりを楽しんで、と心の中で伝えた。



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