オスカー・ワイルド『サロメ』界隈をあるく|西洋絵画も交えて
最近、フランス象徴主義つながりで、『サロメ』を再読(佐々木直次郎訳&平野啓一郎訳)したところだったので、文学通noterの福田尚弘さんの記事(↓)を拝読して、サロメについて無性に書きたくなりました(^^ゞ
💎 サロメ〜まずは、あらすじ
ユダヤの王ヘロデは、兄を殺害し妃を奪って、王の地位に就いた僭主。妃ヘロデヤの娘サロメの美しい姿に、以前から好色な視線を注いでいます。
ある宴の日、ヘロデの視線に耐えられなくなったサロメは場を抜け出し、預言者ヨカナーン(洗礼者ヨハネ)が囚われている井戸のところに足を運びます。
王女を近づけないように命ぜられている近習たちですが、サロメに想いを寄せている"若いシリア人"(王族)が、彼女の懇願に屈し、禁を犯してしまうのでした。
それまで見たどんな男性とも違うヨカナーンの純潔に、一目で心を奪われたサロメですが、出自ゆえに穢らわしいとばかりに、苛烈に拒絶されてしまいます。
ヘロデ王から舞を舞うようにせがまれたサロメは、望むものを何なりと与えよう、という王の言葉を盾に、《七つのヴェールの踊り》を披露。"銀の皿にのせたヨカナーンの首"を所望するのでした。
預言者を殺害することにおそれを抱き、サロメを説き伏せようとするヘロデ王。高価な宝飾品などを次々と挙げていきますが、サロメは首肯しません。
やむをえずヨカナーンの首を刎ねさせ、サロメの望みの通りに与えます。
サロメはヨカナーンに口づけ、なじるように思いの丈をあふれさせるのでした。
その、常軌を逸したともとれるサロメの言動に嫌悪と畏れを抱いたヘロデ王は、サロメの息の根を止めるべく、家臣らに命じて、彼女を盾で押し拉がせたのでした。
💎 サロメはなぜ、銀の皿にのせたヨカナーンの首にキスをしたのか
ものすごく複雑で、半分以上が無意識の領域の事柄なので、解析すると却ってよくないとは思いつつ、ごく一部をあえて書くなら:
多くの人が、子どもの頃に虫を捕まえたら足とかを取っちゃう(故意/過失で)時期を過ごした名残
キスだけでよい感覚(象徴としての首)
処女性を穢されずに想いを遂げたい
聖性に焦がれつつも触れがたい
(ヨカナーンとサロメ…キリストとマグダラのマリア を投影している、とも言われているようです)美女には美女の悩みが・・・
(いわゆる"視姦"被害。いやな言葉ですが。七つのヴェールを脱いでいく踊りをヘロデに見られるのは、本当に心底いやだったと思う...(-_-; そして、唯一、当のヨカナーンだけが、一瞥すらしてくれないままに物語は終わります)
みたいな感覚なのではないかと思います。
クライマックスのあたりでは、異様な緊張を孕むストーリーで、それを、(反語的に)"エログロナンセンス"ととらえる人もいます。でも、個人的には、サロメが敵討ちしてくれたような、ある種の爽快感も、ちょっとだけあるのです。
それは、好色なヘロデ王をはじめとする一般論での"男性"に対しての仇討ちであって、本当はヨカナーンはその外にいる人なのですが、その死を望むところに、軸の狂いや暴走が見えて、そこは狂気と言えば狂気ですが、哀しい感じがします。
もちろん、常識的に見れば、99%、残酷で痛ましい、哀しい終わり方だとは思うのですが。
耽美系の文学ですから、美を味わいつつ象徴的に読むべきであって、これを地で行うと猟奇殺人になります(-_-)
なお、ヨカナーンの首に語りかけるサロメが「おまえの首を犬に喰わせることも、鳥にやることもできるのよ」と、身震いしたくなるような発言をします。ここはどうやら、旧約聖書『列王記 上』21:24「アハブに属する者は、町で死ぬ者を犬が食い、野で死ぬ者を空の鳥が食うでしょう」からの引用らしいのです。彼女自身の発言というより、その流れを汲む文学的な装飾と思えば、怖さも少しやわらぐかも…擁護したくなるサロメ姫です♡
💎 サロメの"仇討ち"の根っこにあるもの
他者と愛を交わすのは、身体だけでなく心理的にも「近づきすぎる」怖さがあるようで、一方では深い孤独を癒す絶大な"効能"がありながら、他方では自己に侵入される忌避感という"副作用"もあるのではないかと思います。男女ともに、一般論として。
それで、サロメは、自己の殻を保ったまま、安全を確保した上で、一方的にヨカナーンの領域に、いわば"不法侵入"した…そういう面があったようにも思うのです。
前半部分で、サロメに焦がれるあまりに自殺した"若いシリア人"は、サロメの領分に侵入し損ねたわけで、そこの対比も示唆に富んでいますね。
こういった、とても歪な支配─被支配関係みたいなものがありつつ、さらに外側に、ヘロデ王や王妃ヘロデヤの思惑も絡んできて、全編としては非常に生々しいはず。そこをまるっと耽美に仕上げたワイルドの筆力(器の大きさ)たるや…ですね。
プラトニックとエロスを(ダークサイドで)絶妙に叶えた結末でもあり、やっぱり好きだなあと思うのです。怖いけど。
ただ、いくつかの翻訳を読んでみて思うのが、なぜこんなに"熟女"っぽいしゃべり方をさせるのだろう、という点。(平野啓一郎さんはだいぶよかったけれど。)ビアズリーの絵の影響かしら。
かりそめにも生死の境を動かすほど好きになった人のことを「おまえ」とは呼ばないでしょう...。私の中ではあくまでも、ギュスターヴ・モローが描いたような、華麗で清楚な少女なのです。
💎 せっかくなので、元になった新約聖書の記載を見てみましょうか
さてさて。
そもそもこのサロメの物語は新約聖書(マタイ第14章、マルコ第6章)に由来しています。今回は『口語訳聖書』からの引用。
イエスさまの寂しそうな背中が目に浮かぶようですね...。
⇒このあと、「パン五つと魚二ひき」を、集まってきた五千人の群衆に割いて与え、皆のおなかを満たした...という有名な奇蹟の場面に続きます。イエスさまはそうやって、自分の悲しみを癒されたのかもね。
また、サロメ姫に話を戻すと、ヨカナーンが処女サロメを「バビロンの娘」と呼び、悪徳の権化のように蔑むのは、いわゆる"原罪"をサロメもまた人間として、イヴの末裔として背負っているため。ヨカナーンは、サロメに向かって、キリストに帰依して悔い改めるよう求めています。
それなら穏やかに諭してあげればよかったのに…と思うのですが、ヨカナーンもなんとなく、サロメを手ごわい"誘惑者"と見ていたのでしょうか…。一説によると(ハイネ)、サロメの母=美女ヘロデヤもまた、かつてヨカナーンに恋をして拒絶された過去があり、サロメがヨカナーンの首を所望したときに喜んだのは、そういう深い因縁があった…ということのようです。
💎 もうひとつのサロメ〜マラルメの『エロディアード』
ハイネやフローベールもサロメを書いているようですが、未読なのでm(._.)m
フランス詩の本を読んでいて、マラルメの《エロディアード》を知りました。サロメの別形態なんですってね。"エロディアード"というのはフランス語の読み方で、聖書の記述に直すと"ヘロデヤ"。サロメの母の名前です。
マラルメはなぜか、サロメという名前は絶対に使いたくなくて、それを使うくらいならまったく別の名前を創作しただろうと言っていたそうです。でも、それでも念頭にあったのは娘のサロメの方。
なお、《ヨハネとの聖婚》以前を描いていて、ヨハネは出てきません。
この詩も、青ざめるほど強烈に美しいのですが、残酷な部分がないので、個人的にはこちらの美姫に一票!だったりもします。
マラルメが、長いあいだ心の中であたため続け、何度も挫折しながら書き遂げた美の髄液。
いつかまた、もう少し詳しくご紹介したい作品です。
単語の取り合わせを破壊したランボーに対して、構文さえ壊してしまったと言われるマラルメのフランス語が、読めるようになってから(^^ゞ
(初心者には荷が重い気がして、覗いてすらいません...)
💎 西洋画ギャラリー〜ミューズとしてのサロメ
生首多めですみませんm(_ _)m
ネットで検索してピックアップした絵画です。"John the Baptist"と"Salome"で検索しました。フランシス・ピカビアも良いものがあったのですが、著作権保護期間満了が(たぶん)今年の12月31日だと思うので、割愛😭
キース・ヴァン・ドンゲンも、保護期間中😭😭
みなさま、どのサロメ(ヨカナーン)がイメージに合いましたか?
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