【孤独の向こうに美文がある】隠居生活のノスタルジーを描く、王昌齢と孟浩然の漢詩2選
あなたはひとりが好きですか?
ネット環境はなく、
これから一切、
人と話すことができなくても平気ですか?
ひとりは、たのしい?
中国の唐の時代には、隠居ブームが起こりました。
その中で自然の美しさを詠う詩が
たくさん生まれたのですが、
それと同じくらい「友人を想う詩」も
たくさん生まれました。
つまり、寂しかったのです。
現代のようにネット環境もなく、
さらに山の中ですから、本当にひとりで生きて
ひとりで死んでいくことを選ぶ、
それが当時の「隠居」という意味でした。
今回は「隠居」という人生を選んだ
王昌龄と孟浩然の詩を紹介しながら、
自由を得たことで失ったものを考えていきます。
王昌龄:同从弟南斋玩月忆山阴崔少府
【書き下し文】
従弟と同に南斎に月を玩び山陰の崔少府を憶う
南斎に高臥する時
帷を開けば 月 初めて吐く
清輝 水木に澹い
演漾 窗戸に在り
苒苒 几盈虚
澄澄 今古変ず
美人 清江の畔
是の夜 越吟苦しまむ
千里 其れ如何
微風 蘭杜を吹け
【日本語訳】
浮世とおくこの南斎に起臥して
とばり開けば いま月は東にのぼる
月光は水の面と木々の梢にたゆとうて
ゆらゆらと窓にゆらめく
満ちては欠け幾世をか経て
月の光に変わりなけれど
うつろうは人の世や
よき人はとおき越にあり
清き江の畔 今宵しも苦吟してあらむ
いかにせむ千里の遠き
そよ風よ けだかき人の香りだに伝えてよ
【解説】
作者が従兄弟と共に、
南の書斎で月を鑑賞していると
遠い山陰(昔の越国・今の浙江省あたり)地方で
県の役人をしている友人・崔某を念い、
その人の清雅な人柄をしのんでいる様子です。
月光はいつも変わらずに澄み渡っていますが、
人の世は移り変わります。
悠久不変の月を見るうちに、儚い「人の営み」を
連想して「いつ再会できるだろうか」と
ノスタルジックな気持ちで友人を想う詩です。
不変的な自然の美しさを描写した前半の4句、
高卧南斋时,开帷月初吐。
清辉澹水木,演漾在窗户。
崔少府の心の美しさを表現した、
美人清江畔
王昌龄が思う
この世の美しいものを並べたのでしょう。
詩全体に尊さが滲み出ています。
※ここでの美人は崔少府のことを指し、
気高い人を表す言葉です。
作者の王昌龄は、
隠遁生活をして世間から離れた生活をしています。
書斎で本を読み、月を眺める…。
誰もが羨む自由な生活ですが、
友人とはもう会うことはないかもしれません。
「陰ながら応援している」
とは、まさにこのことを言うのではないでしょうか。
***
孟浩然:秋登兰山寄张五
【書き下し文】
秋、蘭山に登りて張五に寄す
北山 白雲の裏
隠者 自ずから怡悦す
相望んで試みに高きに登る
心は雁の飛んで滅するに随う
愁いは薄暮に因りて起こり
興は是れ清秋に発す
時に帰村の人を見る
沙行して渡頭に歇う
天辺 魏は薺の若く
江畔 洲は月の如し
何つか当ず酒を載せて来たり
共に重陽の節に酔わん
【日本語訳】
あの北山の白雲の中に
友の張五は楽しく隠居している
君がかたを眺めようと高い丘に登ると
心は北ゆく雁の消えゆく影を追う
日暮れはそこはかとなき愁いが生じ
秋はそぞろに興趣がわき起こる
村に帰る人が沙を踏んで
渡し場で休んでいるのも見える
天につらなる山上の木々は薺の如く
江畔の洲は沙白く三日月のよう
いつかぜひ君と酒を載せて
この重陽の節句を酔いたいものだ
【解説】
蘭山は四川省慶符県の南にある石門山です。
重陽節は旧暦の9月9日で、古人は山に登って
餅を食べたりお酒を飲んだりしました。
9という数字は「陽数」と呼ばれ、
9が重なる9月9日に、天の神様に近い高山に登ると
災禍から逃れられると言われています。
孟浩然が隠居している友人・張五を想う気持ちを、
秋の夕暮れや澄んだ空気と共に詠う詩です。
孟浩然自身も隠居生活を送っているので、
「会いに行けばいいのに」と思ってしまいますが、
現代のように会いたいと思って会える世界では
ないのでしょうね。
北山の白雲の中(北山白云里)という情報だけでは
辿り着ける気がしません。
山中で道に迷ってしまえば、自分の命すら危ういです。
お互い官僚であれば朝廷で顔を合わせることも
多いはずですが、遠くの木々がなずなのように
小さく見えたり(天边树若荠)、
砂洲が三日月のように見えたり(江畔洲如月)する
趣深い景色からはほど遠い生活になってしまいますね。
***
月の美しさも、秋の空気も、友人と過ごす時間にはかなわない。
隠居の寂しさは、
隠居した者にしかわからないでしょう。
現代のようにSNSなどの娯楽もない中、
山の中にただ一人なのです。
水面に映る月の美しさと引き換えに
秋の夕暮れの美しさと引き換えに
友人との時間が失われてしまうこと。
それが隠居なのかと思います。
かといって人が多い都で過ごせば
人間関係で疲れ、
月を愛でる心の余裕もありません。
王昌龄と孟浩然が生きた時代にSNSがあれば、
彼らの寂しさは解消できたと思いますが
今回紹介したような美文は生まれなかったと思います。
彼らは寂しさを乗り越え、
美しい詩を生み出しました。
私たちは、寂しさから何を生み出せるのでしょうか?
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