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一生をかけて1冊を読む ── ぼくはパワーズに借りがある

 筋書きはこうだ。きみはそれと運命的な出会いを果たしたとき、自転車でコッツウォールドを走っていた。一九六三年の春。きみは二十一歳で、ヨーク大学に留学中の大学三年生だ。チョーサーやミルトン、バイロン、そしてスウィンバーン(もしかしたらスウィンバーンはおぼえてないかもしれないけれど)といった英国詩人への関心の芽を、春学期を経ていっそう育んでいる。大学に入ってからというもの、きみはことばの世界に夢中になっていた。最近の変化といえば、もちろん父親との衝突だ。父はきみに社会奉仕活動のようなケネディに触発された夢を持って欲しいと長いこと願っていた。きみは、もしかしたら一流のソーシャルワーカーになっていたかもしれない。きみは、もしかしたらある種のひとびとにとって、あるいはすくなくともずっとそばにいたそのひとにとって素晴らしいことをしていたかもしれない。しかし、きみにとって人生とは本だ。ここからそうなっていく。それ以外にきみの物語はまだなにも決まっていない。
──Richard Powers “To the Measures Fall”(拙訳)

 いまでこそ小説を書くようにはなったものの、もともとは物理学者になりたかったぼくが小説にほとんど執着するようになってしまったのか、これについてはもうどこかでなにかを間違ってしまったとしか言いようがない。
 決して多くはないけれども、30歳を超えたあたりでそういう話を友人とする機会が度々あった。小説に向き合 おうとするたびに、必ずしも小説が個人の生活を豊かにしてくれるとは限らないという側面を思い知らされるのだが、それでもやはり「小説を読み、書くなかでしか得られない感慨」というのは否定し難く存在している。その感慨を信じたいだけなのかもしれないけれど。

 アメリカの作家リチャード・パワーズの存在がぼくにとって大きいのは、そうした感慨を信じ続けたひとだからかもしれない。イリノイ大学の理学部物理学科に進学したパワーズもまた物理学者を志していたという。しかし、狭く深く縦方向に専門領域に「潜る」ことよりもあらゆる分野を「越境する」横方向への知の展開を希望したかれは、修士課程から文学へと鞍替えをする。けっきょくのところ、専攻を変えたところで根本的な解決には至らず、なかば絶望を抱いて就職した。
 しかし転機はある日突然、不条理文学のごとく訪れる。ドイツの写真家アウグスト・ザンダーによる1枚の写真との出会いにより、パワーズは最初で最後の小説を書くことを決心、退職し、その2年後に完成したのがデビュー作『舞踏会へ向かう三人の農夫』だった。自然科学、産業史、芸術論、歴史考証など雑多な要素が作中の3つの物語によって縦横無尽に張り巡らされたこの作品は、20世紀アメリカ文学の記念碑的作品の1つとして数えられている。
 もちろんパワーズの創作はこの1作で終わらなかった。
 その後も勢力的に作品を発表し続け、2006年に『エコーメイカー』で全米図書賞を、2019年に『The Overstory(近日邦訳が発売されるとのこと)』がピュリッツァー賞フィクション部門を受賞するなど、現在でも第一線で活躍している。

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 パワーズの作風の特徴として、ひとつの小説のなかに複数の物語が配置されるという特徴がある。違う場所、違う時間の物語がパラレルに語られ、終盤にむかうなかで交錯し、小説を何段階も上の次元へと押し上げる。物語同士のダイナミクスにとりわけ神経を注がれたかれの作品は、同時に「いかにして物語を語るか」という技術に対しても自己言及的であるとも読めるだろう。広範囲にわたって網羅された知識で彩られ、過去より脈々と続く小説技巧を継承して構築された文章は「青臭い衒い」でさえあるかもしれない。ただ、ぼく自身がリチャード・パワーズという作家のもっとも愛すべきポイントだと考えているのは、この「青臭さ」に他ならない。

 第一文はこうだ。〈年の瀬に見舞われた大雪で、二週間後にショウドツバメはサウスダウンのちかくにある砂利採取場へと帰っていった。〉続く数段落はひどく抑圧されたウォットン・オン・ウォルドという町が描写され、この町はきみがいまいる「m」がつく町とよく似ている。三ページ目で著者は年代を明らかにする。一九一三年。最後のページでは、村の探索部隊がソンムで戦った若い大佐が手足のない状態でさきほどの砂利採取場の片隅に横たわっているのを発見する。七年の時が経ったが、幕開けの軽快なカデンツァは、もうひとつの世界の断片へと塗り替えられてしまう。
──Richard Powers “To the Measures Fall”(拙訳)

 そのパワーズ作品のなかでも、このコラムの最初として絶対に取り上げたかったのがThe NewYorker で発表された短編『To the Measures Fall(メジャーズ滝へ)』だ。そもそもパワーズだけでなく、海外文学の読者じたいが決して多くないなか、邦訳すら出ていないこの短編小説を知っているひとはほとんどいないのではないかと思う。しかし、「ほとんど誰も読んでいない」という事実にこそこの作品を紹介する値打ちがある。というのも、この小説をあえて一言で紹介するなら「おそらく自分だけにしか大事ではない、名作かどうかもわからない小説を、一生かけて読み続ける」という物語だから。

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『メジャーズ滝へ』の主人公は「あなた」と二人称で呼ばれる女性だ。1963年の春、イギリス留学中にエルトン・ウェントワースなる作家の「メジャーズ滝へ」という小説と出会う。19世紀生まれのこの作家はそれなりのキャリアを築いていたようではあるものの、世の中の多くの作家と同様に、歴史のなかに埋没してしまっている。
「あなた」は20世紀のアメリカを背景に、文学を志して大学院へ進学、結婚、指導教官との不倫、離婚、再婚、文学からの脱落など、まさに人生を経験を経験していく。その節目節目で「あなた」はウェントワースの「メジャーズ滝へ」を読み返す。時に距離をとり、時に接近しながら、「あなた」はひとつの小説と共に人生を添い遂げる。他のパワーズ作品と同様に、「あなた」の物語の中に、それとは時空を異にする別の「メジャーズ滝へ」という本の物語が存在し、「あなた」の人生の浮き沈みと、流行に翻弄される「メジャーズ滝へ」という小説の「物語」が、小説の進展に伴って共鳴する。

 大学院生のとき、半年だけアメリカに留学していたことがあった。持っていける荷物は限られていて、小説は片手で数えられるほどしか持っていけず、1ヶ月もすればすぐに読むものがなくなった。英語で小説を読むようになったのはそれがきっかけだった。好きな作家の好きな作品を原文で読みたいとか、そうした目的意識があったわけじゃない。単に読むものがなく、やむをえず英語で読まなければならなかったに過ぎない。
 はじめて外国語で読み切った小説はジョージ・オーウェル『動物農場(Animal Farm)』で、このときはただ読めたことに満足だった。それからフィリップ・ロス『乳房になった男(The Breast)』を読み、ジーン・ウルフ『デス博士の島とその他物語(Island of Dr. Death and Other Stories)』を読んだ。近所の古本屋で読めるはずもないとわかりながらトマス・ピンチョン『重力の虹 (Gravity’s Rainbow)』を買い、研究室のデスクに置いていると同僚が「ピンチョンはネイティブでも良い枕になる」と笑った。かれはカフカの『城』が最高の小説だといった。曰く、「未完であることが『城』を完成させている」
 その当時からじぶんの手でなにかを訳してみようとしたことはあったけれど、集中的に翻訳にとりくむ時間をつくれず数年が経った。学生から会社員になって、会社員を辞めていた。まもなく二十代を終え、三十代に差しかかろうとしていた。そのときにはじめて小説の依頼をもらった。文学ムック「たべるのがおそい」の編集長をしていた西崎憲さんが主催する電子書籍レーベル『惑星と口笛ブックス』で短編集を出すという話で、生活の変化のなかで実作からも遠のいていたぼくは、なんとか実作の感覚を取り戻そうとしていた。そこでぼくは、たまたま読んでいたパワーズの『To the Measuers Fall』をじぶんで翻訳してみようとおもった。パワーズには勝手に借りがあった。

羽生 将棋の世界は不思議なもので、いろんな人がいるんですけど、この瞬間がもうピークだなと思ったけれども、またもう一回ピークがあるという人もいます。そのピークが十代ってことはないですけど、二十代にあって、もうそのあとあまりないという人もいるんですね。結構個人差が大きいんです。数学の世界みたいに、二十代のときしか大部分のものが残せないということはないんじゃないかな、と思っているんです。
むしろ年代が三十代、四十代と上がっていっても、後世に伝えられるようなものも残せるんじゃないかな、というふうに思っているんです。
──羽生善治・柳瀬尚紀『対局する言葉 羽生V.S.ジョイス』

 少なくとも、物理学者を志していたはずなのに気がつけば小説を書いてしまっていた境遇に、パワーズに対してどこか他人事ではないシンパシーを感じずにはいられなかった。その作家が書いた「一生をかけた読書の物語」は、二十代で終わることなく、ながく小説を続けていくならどこかで向き合う必要がある。それがいまだと直感した。
 上記は、羽生善治とジョイスの翻訳で有名な柳瀬尚紀による対談『対局する言葉 羽生V.S.ジョイス』での羽生のことばだ。引用した羽生のことばに対し、柳瀬は以下のように応えている。

柳瀬 なるほど。いまのお話で、思い当たることがありましてね。もう一生と取り替えてもいいような瞬間。英語で、エピファニー(Epiphany)という言葉があるんです。そのエピファニーというのは、神が急にポッと現れるというような、もともとは宗教的な言葉なんですけれども、それを芸術のものに置き換えた言葉なんです。ただ、ジョイスに限らず、いま名人が瞬間という言葉を二度三度、もっとおっしゃったかもしれないですけれども、すごいことをやる人というのは瞬間が問題なんですよね。
──羽生善治・柳瀬尚紀『対局する言葉 羽生V.S.ジョイス』

 ぼくは「すごいことをやる人」では決してないだろう。しかし、それでも、たとえ「すごいことをやる」というタイプの人間ではなくても、小説を読み、書くことを選んだ生活のなかで、柳瀬のいう「エピファニー」の瞬間は存在する。すくなくとも、ひとりの名もなき読者としても素朴なよろこびをこえた次元で、「祝福」とさえ呼びうるかたちでだれにでも到来するとぼくはおもう。『メジャーズ滝へ』の最後は、ひとつの小説に寄り添い続けた名もなきひとりの読者に訪れるエピファニーの瞬間が描かれている。

 読書家の娘がその本を持ってくる。芸術の象徴のがんセンターで、一〇フィートのセメントづくりの中庭を横切るレンガの壁に面する窓の隣のきみのベッドで、きみに付き添うために。きみはふたたびそれを読む。もちろん、ぜんぶじゃない。おそらくきみに完読できるものなどないだろう。しかしうすれてゆく眼前の生物を探しもとめて、数ページをかろうじて読む。
 このとき、その本は共有された不幸や、空気のように目に見えない媒体のなかにみずからが幽閉されているという妄想を変える。それはまったく無知のある少女についての本だ。とあるこっけいな春のコッツウォールドで自転車を走らせ、本を人生とまちがえた少女の物語。そしてゆるやかな丘陵地帯は真実のメタファー。それはかすかな光を放つ。左ページの一番下、行間のなかに。そしてきみはたしかに知っているような「なにか」に満たされる。
 年の瀬に大雪に見舞われる。きみはベッドに横たわり、次のモルヒネ治療までの一時間、腫れ上がった人差し指はその背表紙のひび割れた一冊の秘密の場所をなぞる。きみの人生を予言したその文章を。この瞬間、きみは正気だ。いま、きみの人生はどんな物語にだって匹敵する。
──Richard Powers “To the Measures Fall”(拙訳)

 この小説の主人公である「あなた」は、一生という時間を生き抜くにおいて多くの困難に翻弄され続けた人間にも見える。そして人生を俯瞰してみたとき「文学」が彼女の人生を幸福にしたかどうかも疑わしい。
 文学なんて、わざわざ近寄る必要のないものかもしれない。
 しかし、名もなきひとりの読者でしかない「あなた」に到来したエピファニーの瞬間が示しているのは、たとえ文学がどれほどつまらないものであろうとも、人間ひとりが一生の時間を捧げる程度の尊さがあるということだ。
 いま、ぼくが抱いている「小説を読み、書くなかでしか得られない感慨」がエピファニーと呼べる程度のものに育つかどうかはわからない。ただその真偽を確かめるためには、まだまだ文学と付き合い続ける必要がある。この読書に対する向こう見ずな信頼こそが、パワーズ作品の「青臭さ」がもたらす唯一無二の詩情だ。
 このコラムでは、多くのひとに読まれることを運命付けられた訳ではない、ひっそりとどこかに存在する小説を好きで居続ける「青臭さ」を、(上から目線なことばにはなってしまうが)すこしでも肯定できるものになればいいなとおもう。

【参考】
https://www.newyorker.com/magazine/2010/10/18/to-the-measures-fall

※以上の文章は、『【文学コラムの掲載先を探しています】企画書とサンプル原稿を公開』にてサンプル原稿として某文芸系メディアに提出したものの、掲載が見送られたものです(経緯などについてはリンク先を参照) 。ご依頼などの参考にしていただけると幸いです。

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