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「死についての授業」は、なぜないのか?

結論から書かせてもらうと、12歳から15歳の思春期に、学校で「死についての授業」を実施すべきだ。
少し前のアンケート記事だが、死んだらどうなる?という問いに対し、生き返ると回答した小学生が30%に達し、中学生も20%はいるという調べが出ていた。
これには、ゲームが大きく影響している。

イェール大学の「死についての授業」は、著書も出ているくらいだから、知らない人も少なくないと思う。
だが、大学で学ぶにはいくらか遅すぎるような気がしてならない。

現時点で私たちは、運が良くても100年の寿命しかない。場合によっては半分の50年で絶命する可能性もあるし、もしかしたら明日逝ってしまうかもしれない。

人類は、死から逃れた者は一人として存在しない。我々は死を前に、みな一様に平等なのである。

だが私も含めた多数の人間は、死ぬ準備をするために生きているわけではない。それは、いつ死ぬかわからないことに時間を割くよりも、どう生きるかを考えた方が有意義だからだ。
そして、死のタイミングを決めることができる唯一の方法は、自死を選択する他はないのであるが、それは得策ではない不謹慎な価値観が世の中を覆っている。

だが、死は本当にネガティブなものだろうか?

これは仮説だが、死はみな一様に平等に訪れるものであるなら、不平等が大半の価値観を占める人生において、これほどの共通体験は他にあるだろうか?

「人は知らないものを恐れ、憧れる」

実際、私は何度か人生の絶望を味わった。
だが、その絶望が本当の絶望だったかと言うとそうではない。「死んだら楽になれる」という思いすら、喉元を過ぎて時間が経過すると、あの時の追い詰められていた気持ちはいつしか和らいでいた、というのが本音だ。
もちろん、その期間が短期なのか長期なのかにもよるのだろうが。

言いたいことは、「死」の捉え方だ。
死についてのイメージは、みな違う。
大半の人は死を恐れ、それを遠ざける。
健康に留意し、健全であろうと努力する。
生に執着し、やがて命乞いをする者もある。
それもわかる。
一方で、死に憧れ、危険を楽しみスリルを味わうことに命をかける者も少なくないし、それがたとえ命を失うことになろうとも、大した問題にしない者もある。
これもわかる。

この違いについて、もっと議論される場があればいいのにと思う。
私個人の意見では、災害や事故や自殺も寿命だと考えている。そう考えなければ、胸が苦しくなるからで、けして本質的な考え方ではないのかもしれない。
厄介なのは、死は本人のものであると同時に、関わった他人のものでもあるということだ。
だから、残されたものの価値観が重要なのだ。
だが、我々が死を選択する可否はもちろん、死に逝く者を、残った者がどう受け留めるかという価値観の底上げも必要なのだ。
戦争を知らない時代を生きる我々にとって、死は遠い存在だ。だが、災害や事故や病が明日来るかもしれない。そうなると、人生はガラリと姿を変える。

災害や事故や病に備えて予防をする前に、死とどう向き合うかについて備える必要があるのではないだろうか?

著者の佐伯先生には脱帽でございます。是非、一読を。








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