Big Buddy

私を支えてくれた人たちに感謝します!私の頭の中を書き出します。

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最近の記事

私は身体と精神の上に魂があると考えています。身体が弱っていても、精神が強ければ耐えられることができます。同様に精神が弱っても、身体が強ければ耐えられることができます。しかし、魂が削られると耐えることが難しくなります。魂が削られるときは、身体や精神が弱りすぎた時に起こると思っています。 身体は設備、精神は部屋だと思っています。設備は機能性が高いものが良いでしょう。部屋も快適が良いでしょう。設備は、修理できるところが大変多いです。これがいわゆる病気です。人生の中で多くの病気をし

    • パラバルーンと鼓笛隊

      幼稚園の運動会は、どこかのグラウンドで行った。パラバルーンと呼ばれる大きな布をみんなで膨らませたり、中に入ったり、回したりした。特に中に入ったときに先生と友達と顔を見合わせて楽しんでいたことを覚えている。 鼓笛隊もしていた。私は中太鼓だった。首から中太鼓をぶら下げて、先が大きく膨らんだバチを使ってたたいていた。小学校でも、学芸会は基本は太鼓を選択していたのは、この時の記憶があったからであろう。みんなと歩きながら、列を整え、列の間を一定に保ち、一歩一歩を大事に太鼓を叩きながら

      • 死生観

        人生を歩む中で考えたこと、思ったことも記述します。 病気になるたびに恐怖を感じていました。この恐怖は「どうなるのか?「何かされるのか?」「痛いのか?」というものだったと思います。私の家は豊かではなく、どちらかと言えば貧しい方でした。 貧しかったので、とにかく勉強しました。勉強して医者や弁護士になればお金がもらえると思っていた時代です。しかし、その当時は勉強の仕方もよくわからず、がむしゃらに繰り返す勉強しかできませんでした。いわゆる天才タイプではなく秀才タイプです。だんだん

        • いもほり

          幼稚園の遠足でいもほりに行った。ただ、この日はいもほりだけでなく、これから行く小学校の健康診断がある日だった。私は、小さいときは注意力散漫で、人が言ったことをすぐには覚えられなかった。そのため、いもほりから移動するバスが出る時間を、午前か午後かわからずにいもほりをしていた。 私も先生に聞けばよかったのだが、引っ込み思案だったので、聞けずにモヤモヤしながらいもほりをしていた。いもほりに夢中になっていた時に、午前のバスが出てしまった。あれだったのか?と思いながら、さらにモヤモヤ

          いとこの家

          私にはいとこが、父方に5人(男3女2)、母方に6人(男2女4)いる。母の妹が近くに住んでいたので、よく遊びに行ったり遊びに来たりしていた。電車を2本乗り換え、家から30分くらいの駅の近くだ。 駅を出て、公園を左に曲がり、すぐ右に曲がると2階建てのアパートがあった。2階の向かって右から2つ目の部屋だった。入ってすぐ見えるのは、室内にあるジャングルジムだった。うちにはなかったので、とてもうらやましかった。またそのジャングルジムには小さなブランコも付いていた。 駅の近くの公園に

          いとこの家

          車のエンジン始動

          父は自営業を営んでいた。緑色の軽トラックを運転していた。幼稚園の頃は、父の工場の近くで遊ぶことが多かった。チョークで道路に絵を書いたり、自転車で公園に行ったりして遊んでいた。車に乗って、自動車を運転するような真似もした。 この車には、スイッチがあった。鍵がなくてもスイッチを押すとエンジンがかかる仕組みのようだった。車の鍵は父が持っていたはずなので、鍵は刺さっていなかった。不覚にも、そのスイッチを興味本位で押してしまった。 エンジンがかかり、幼い私は車が動き出すと思ってしま

          車のエンジン始動

          自転車での事故

          幼稚園の時に初めて自転車を買ってもらった。駒(補助輪)付自転車であったが、自分で動かせるところが楽しかった。父の工場へは、毎日行って、自転車で遊んでいた。 しかし、まだ未熟な運転技術だったため、ちょっと調子を乗ってスピードを出した。工場のまわりは狭い道が多いので、そこまで車がスピードを出していないが、広い道路もある。そこに突入してしまった。 未熟な運転技術だったため、スピードをコントロールできずに広い道に飛び出し、ブレーキのかけ方も未熟だったので止まれなかった。左から車が

          自転車での事故

          初めての自転車

          父は工場を営んでいた。自宅とは違うところに工場があったので、たまに行くのが楽しかった。2枚のシャッターがあり、父はそれぞれのシャッターを開け、真ん中の支柱を外す。いつもシャッターにつかまって途中まで引き上げられて遊んでいた。 幼稚園の時に父がシャッターを開けた。すると駒(補助輪)付自転車があった。私にとって初めての自転車である。父と母がニコニコしていた。本当にとても嬉しかった。この気持ちは、私の子どもに味わさせてあげたいと思い、今でも親としてサプライズをしている。特に「子ど

          初めての自転車

          黒いタイツ

          私は男である。男は黒いタイツを履くのはおかしいという時代の人間である。幼稚園の時、意味が分からず黒いタイツを履かされた。私の記憶では、少なくとも2回は履いている。自分から履いているのではない。母から履かされているのである。なぜ履かされていたかは覚えていないが、赤ちゃんの時の足先まですっぽり入るつなぎの服を着ているようだった。 黒いタイツは、トイレの時に困った。ズボンを下ろしてパンツを下ろして用を足すのであるが、ズボンを下ろして、黒いタイツを下ろしてパンツを下ろすというように

          黒いタイツ

          もぐら?

          幼稚園の園庭はコンクリートだった。しかし、木の近くの地面に横穴があった。コンクリートなのにだ。私が住んでいた地域は、基本はコンクリートの地面で、公園の地面が土であっても、すぐにコンクリートに当たる。土としてほれるところは、公園の砂場か木が生えている土くらいだった。それらでもスコップで掘れば、必ずコンクリートに当たった。 コンクリートに穴が開いている。私には不思議で仕方がなかった。幼稚園の園児も私と同じように穴を不思議がった。この園児は、私は全く知らない。園児が穴に木の枝を入

          もぐら?

          驚きの幼稚園

          幼稚園のことを思い出したので、ホームページがあるか調べてみた。写真には、タイヤのブランコが写っていた。まだあったんだと懐かしく感じた。おまけに制服も思い出した。夏は白で冬は紺の制服で、デザインは水兵さんが着ているようなものだった。 この幼稚園が存在していることは知っていた。昔の父の職場の近くに今の実家があるので、たまに実家に帰ったときに子供たちに「ここがお父さんが通っていた幼稚園」といつもはなし、さらに園歌も歌う。まだ、わたしの頭の中には、幼稚園の園歌が記憶にある。インター

          驚きの幼稚園

          狭くて巨大な幼稚園

          幼稚園に入ってすぐの部屋に私は通っていた。ここは「赤1組」だったと思う。この時は年中さんだった。 年長さんになると「白E組」であった。白A組から白F組まであった。幼稚園の時の集合写真を思い出すと、他にも黄色や赤、青、緑の帽子をかぶっている。どれだけ人数がいるんだ!という幼稚園であった。しかし園庭は狭い。おまけにコンクリートの園庭であった。ブランコ2つ、砂場、グルグル降りてくる非常すべり台、飛行機型のジャングルジムがあった。ブランコは普通ではなく、タイヤに板がのせているものだ

          狭くて巨大な幼稚園

          側転

          側転が得意だった。地面に左手を付き、右手を伸ばして地面に付くように向け、足を蹴り上げ、頭が地面、足が空を向き、そのまま足が地面に戻ってくる。どこでも側転をしていたので、母からは「手が汚い!」とよく怒られたものだ。 側転のきれいさは、頭と足がまっすぐであるか、足が空に向かって伸びているかだと思っている。いつもきれいな側転を目指して楽しんでいた。幼稚園の時は、いつも「俺の側転を見てくれ!」と言わんばかりに、まわりとは比べられない、きれいな側転を見せつけていた。 「きれいな側転

          おばあちゃんの家

          「すのこ」の上で料理しているおばあちゃんがいる。台所は暗く、シンクの上に長形の蛍光灯が点いているだけである。台所からリビングに向かうと右に急な階段、前にリビングがある。このリビングの奥は玄関である。玄関付近に学習机があった。扉を開けると、その扉が机になるものである。子どもながら「欲しい」と思った。おばあちゃんに捨てるならちょうだい!と言った。しかし、その机はいつの間にか無くなっていた。 台所の裏には真っ暗な通路があった。蛍光灯ではなく裸電球だった記憶がある。この通路を抜ける

          おばあちゃんの家

          戦艦のおもちゃ

          戦艦と言っていいのだろうか?スターウォーズでいう「ミレニアムファルコン」の形に近いゴム製のおもちゃで、色は紫とグレーだったという記憶がある。 この戦艦は、円形であるが、両ウィング付近に半球のドームがあり、そこから小型の戦闘機が出てくるものである。形ははっきり覚えているが、何の戦艦かが思い出せない。私が幼稚園(年中)に入る前の記憶である。 小さい頃はおもちゃはほとんど持っていなかった気がする。敢えてあったというなら、ジープ型で子どもが乗れる車、キューピーちゃんとモンチッチだ

          戦艦のおもちゃ

          ごわごわな服

          赤ちゃんの時は、自分で服を脱ぐことができない。だから、赤ちゃんが服を着ても気持ちいいだろうということを親が肌触りを確認した方が良い。帽子も靴下もよだれ掛けも同様である。 私には弟がいる。弟が赤ちゃんの時に、水色と黄色の足まですっぽり入る服を着ていた。これらの服は、私のおさがりである。私は母に言った、「黄色の服は着心地が悪いよ」。これは私が赤ちゃんの時の記憶を元に母に話していた。私は黄色の服を着た時に、足裏がゴワゴワしてムズムズすることを覚えていた。黄色の服は、私にとっては天

          ごわごわな服