書評とはその味わいを著者らへ敬意を込めテキストに落とし込むお礼の作業なんだにゃ🐾
こにゃにゃちわ🐈今回は三毛猫ミャアが記事をお届けしニャス💕
光文社新書しゃんが面白い企画をやってらっしゃるんだニャ。
レーベル創刊以来、刊行ブックスが千点を突破したことを記念して、note読者から #私の光文社新書 を募集されているのにゃ。
ちなみに、ウチの飼い主さんが、「著者の立場から他の作品を一冊あげてほしい」との依頼で筆をとったのがコチラ⇩ニャ。
『子供の「脳」は肌にある』、山口創/ 著。ニャア!
その依頼では、たしか文字数が200字までと制限されていたらしいにゃ。その枠のなかで、「本書をどれだけ魅力的に表現するのかにとても苦心した記憶があるっ」て、飼い主さんが語っているにゃ。その紹介文を下に参考までに添付するニャ。
実は、上の紹介文の最後のほうにも書いているように、本というのは文章の味わいだけでなく、カバーやページの質感——ツルツルのさらさらなのか、少しぬめっと感があるくらいがいいのか、あるいは指がひっかかるくらい?、紙の厚みはもっと薄いがいいのか、それともめくった感がしっかりある厚いほうがいいのか、色味はどうか、などといったことで、読み手の感覚が意外にも大きく変化することがわかっているために、ここのところの工夫が出版各社の味わいとなりそれぞれの個性としてでてくるところなんだにゃ。
このあたりをさらに知りたければ、下記の本『編集者の仕事』、柴田光滋著、新潮新書が参考になるにゃ。
さて、飼い主さんが推薦した先のご本は、それこそ肌感覚の重要性について説いたものであった。その読書体験を脳内で反芻するなかでハタと、飼い主さんは気づいたようなのにゃ。
「そういえばこの本をめくる時の感覚とそれに費やす時間はとても心地よかった。そのことでさらに本書の内容が胸に染みたようにも思える。考えてみるとそれこそは、本書が備える滋味ある魅力と説得性を実はそのまま読み手がキャッチすることにも繋がっているじゃないか!」という事実に。
それが紹介文にあらわれた——つまり(神が)降りてきた!んだ、って回想しているにゃ。
書評などを書く際にはこうした感覚——本の世界や内容を(頭というよりも)精神で味わいつつ、それだけでなく自分の身体とその本とが触れあう体験がどんなふうに紡がれ、またその時に経験した時間や環境はどういうものであったか、という言葉には表しにくいけれども「そこにある〝質感〟ともいうべきもののすべて」が読書体験となって、いざ文字をタイピングするなかでだんだんまとまっていき最終的な形になっているような気がするって、飼い主さんは言うんだニャ。
先の論考で飼い主さんは、とかく文章をくどいほどに書き直すことの重要性について触れていたのにゃけれど、それはいま踏んできたようなステップの次にやっと課されるものなんだにゃ。
読書とは、「まずは美味しい料理を味わうようにそれをそのままに(あなたの感性のままに)いただくこと」とは、最近の飼い主さんの弁なのにゃ。
そして、書評とはその味わった感覚や感動を著者や関係者への敬意を込めてテキストに落とし込むお礼の作業に他ならない、と言ってますのにゃ。
一冊の本が刊行されるまでには編集者・校正者・装丁や挿絵のデザイナー・営業さん・流通・取次・書店さん等の大勢の支えなくしては決して形にならにゃいからだにゃ。
だからこそ、その本に「なにが書かれていたのか」を個別にあげることよりも、「なにを感じ・味わい・どう心と体が震え・読後の行動にどんな変化が出たのか」という読み手の経験をもとに、「その本をその人なりの感覚で再構成する」ことが、唯一無二の書評ともなるし、著者や関係者への最大限の敬意の表明ともなるんじゃにゃいのかニャア……って!
(飼い主さんに惚れなおしちゃうニャア……🐈💕)
さぁて、ウチも次は何を読んで味わおうかニャア。読書するたびに、ウチの行動が少しずつ変化していくのは楽しいニャア。そうやって読書体験を経ていけば、いつか(ウチの野望である)菩薩猫🐈にも(あの永ちゃんのように)成り上がれるかニャア。ニャンて。にゃにゃにゃ🐾