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編集長はカミの字に身を焦がす

飼い主さんがまたまたブツブツ言っていますのにゃ。ウチの諫めも全然届いてにゃいにゃ。「同じブツブツならナンマンダブツでしょう」ってあれほど……まいっか、聞き耳を立ててみようっと。なにせ猫の聴力は人間の五倍弱にゃんだから。

「なんでモニターだと気づかないのかなあ」って何のことにゃ? ねえねえ飼い主さん?

やっとウチが喋りかけているのに気づいた飼い主さんがにゃんだかさっそく涙目ですがってくるものだから参るのにゃ。

「ねえミャアさん、原稿って不思議なんだよ。知ってる? モニター上ではもうばっちり絶対大丈夫と思ってても、紙に打ち出すと必ず結構なアラが見つかるんだよ。あなたが話せたらきっとその訳を教えてくれるはずと思うけど。ミャアさん頭いいもんねえ」だって。

飼い主さんはこれまで十年ほどの間に何冊も商業出版での刊行を果たしているのだけれど、入稿前の集中チェックの時には大体いつもそんなことを口にしているのだにゃ。月刊誌での連載だって締め切り前は毎度そんな感じにゃ。どうしていつまでたってもそんなことに慣れないのかにゃ。それにしても人間の目って不思議にゃ。同じ文面なのに、紙とモニターではどうも見えている風景が微妙に異なっているみたいだからにゃ。

だから飼い主さんはパソコン上での原稿をある程度まで進めたらその段階で今度は必ず紙に打ち出して確認する作業が癖になっているニャア。きっとその訳は半ば本人もわかっているのにゃん。ワープロで文章を打ってそれを何度もそれこそ目を皿のようにして見返して修正をいれようが、結局は紙での最終チェックを経なければ到底完成度は高まらないって。

それをわざわざ「なぜ?」なんて泣き入れるとはちょっと情けないのにゃ。いや待てよ。もしかして飼い主さんは純粋に「どうして?」って思っている可能性も否定できないにゃ。

だって「あらま、ここにも?」って呟きながら紙面上でやっている手直し時の表情は意外にいいものがあるもの。そもそもウチが見るところによれば、最初にライティングにかけている時間よりも手直し時間のほうが多い気もするしにゃ。要は完成に向けた職人作業をすすめるべくわざわざ言葉に出しながらリズムをとっているだけなのかも?

そんな飼い主さんの口癖だけど実はウチも少しはわかってきたのにゃよその心情が。にゃぜなら、ウチもほら〝書ける猫〟じゃない! <ちょっとソコ! 何しれっとした目をこっちにむけるんよ。まったくにゃってにゃいのにゃ……>

閑話休題。結局、書くという作業は日本語が運用できるから誰でもできますっていうレベルじゃなくて、一度形に仕上げた(取りあえず納得という段階の)ものをもとに、そこから徹底してシェイプしていく作業が絶対に必要で、それこそ職人のようなアーティストのようなこだわりがそこになければ散漫な文章に堕してしまうじゃないかにゃって、ウチもある時から確信持つようににゃったんよ。

まあウチの場合飼い主さんに厳しく指導されているから少しはコツがわかるようになってきたからだけどにゃ。でも普通はこういうの自分ではうまく気づけないんじゃにゃいかっても思う。だって、飼い主さんが大学生の書いた文章なんかの相談にのっているとき若い彼らにいくら言っても修正作業の重要性をなかなか飲み込んでくれないもの。たぶんウチの見るところでは、言葉がしゃべれるから文章も自分は大丈夫って思っている節があるにゃ。実際彼らはほとんど手直ししにゃいし。

世に数多ある文章指南の書にも言葉では修正の重要性なんかが唱えられてはいるけど、実際には肌感覚で覚えるしかないものだから、仕事とかそんな環境に身を置かないとやっぱり無理なんじゃないかなっても思うにゃ。

修正作業っていうのは、まあ学校の体育祭レベルであっても夜遅くまで練習するのにゃし、大事なのは本番ではそういう苦労している途中の姿は別にみせないよね、というのと同じようなもんかにゃあって考えるとわかりやすいと思うにゃ。

それが学祭での演目とか絵画とか造形とかだとイメージされやすいのだろうけど、「文章」相手だと途端に軽く見られるのかニャァ。なにせネイティブならその言語はとりあえず喋れるしだから書けると思っても不自然じゃないにゃ。でもそれは個人的なメモの範囲内でのことで、それを超える範囲になるとやっぱり裏側でコソコソしこしこ修正やりまくってからじゃないと表には出しづらいにゃよ。

そういう「裏側」で行われている努力ってやつがみえる本がにゃいかなあと思っていたら、平成三十年に日本近代文学館から『小説は書き直される——創作のバックヤード』っていうまさにドンピシャのものが出ていたにゃ。文豪ほど一字一句にこだわる姿がここには見られるにゃ。

それはどこまでこだわり抜いたとしても完璧に満足するゴールにはたどり着けない世界でもあるのにゃにゃ。ウチの飼い主さんレベルでもたとえば重版がかかった際なんかでもやっぱり結構修正したい部分が出てくるみたいにゃ。これといった完成形がなく日々それに向かって歩を進めるしかにゃいってところはなんか人生のようでもあるのニャア。

とすれば、なるだけ丁寧に何度も十分納得するまでしつこく推敲しながらそれでやっと一歩進めるって思えるかどうかが大事にゃんだろうね。猫の一歩もにゃっぱりもっと大事にしようっと!


<飼い主です>

ウチの猫がいつもお世話になっております。また生意気ばかりですみません。偉そうなこと言ってますがあれで結構サボり魔なんですよね。「猫は寝るのが仕事にゃ」、とかなんとか言っちゃって。でも、いつも私の応援だけは欠かさずしてくれるんですよ。まあそれがなきゃひたすら繰り返す修正作業なんてのはやっぱりですね……。それはそうとあいつが勧めていた本は本当にいいですから是非。あとは村上春樹氏の『職業としての小説家』も書き直しについて凄まじい熱量での取り組みをなされていることがわかります。



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