見出し画像

芽吹き、レジリエンス《140字以上の日記》

 義父も寄る年波にかてないのか、この数年、庭が荒れぎみになっています。サツキの生け垣もびっしりツタに覆われて、見る影もなくなっていました。

 荒れはじめた最初はまずヤマイモが侵入してきて、「庭でむかごがとれるとかサイコー!」だなんてはしゃいでました。だけど手をこまねいているうちにカラスウリとか他のツルが入ってきて、ヤマイモが負けて、今年はむかごが全然つきませんでした。
 それだけでなく、隣の藪からクズが迫ってきています。よく見るとフジも入りかけています。
 来年の夏を想像するだに、ほんとうにヤバイです。庭が自然にかえる一歩手前です。

 

 今年の秋は自分のうつの容態もそこそこよくなり体を動かしたくなってきたので、リハビリも兼ねて、週に何日か、義父の庭の手入れをしに行っています。
 なんといっても義父宅は目と鼻のさきにあるので、裏からこっそりとなら、パジャマの上になにかをはおったままいくことができます。室内用のもふもふの毛糸の靴下ですら脱ぐのがおっくうなので、もふもふの靴下ごと夫のばかでかいクロックスを履いていきます。

 この「着替えずにすむ」というのは、とても重要です。
 うつの人が外出できなくなるのは、「着替える」というひと手間ですらしんどいからです。ていうかそもそも、「この程度のことが……」っていうことですら脳にとっては負担になるのが「うつ」である、と知ってもらえたらと思います。

 まあとにかく。
 義父の家の近くに引っ越してこなければならなくなったときは、いずれは老いた義両親とけっこう広い庭の世話がまわってくることを想像して、ずいぶん憂鬱だったし不機嫌でもありました。
 だけどいまその庭が、うつからの回復のために一役買っていて、自分が救われているんだから(だってね、着替えずして外出して、ちょうどいいだけ作業して帰ってこれるメンタルのリハビリ施設なんて、どこにも無いですよ!)、人生なにがあるかわかったもんじゃありません。

 

・◇・◇・◇・


 さて、サツキの生け垣がツタでひどいことになっているのにずっと気がつかなかったのは、ツタの葉がえらくサツキの葉とそっくりだったせいです。遠目には「まあ、サツキはそこそこ元気っぽい」としか見えなかったんですよね。
 だけど、そばで見たらびっくり。サツキの葉だと思っていた緑の大部分はツタの葉でした。

 とにかくバリバリと力まかせに引っ張ってツタをひっぺがしたら、その下は、葉の無い茶色いサツキの枝と、縦横にもつれた糸のようなツタの茎(これまた、一切葉が無い)のはびこる、虚無の世界でした。
 枯れた枝や株もあるようで、絡まったツタに引っ張られて、いっしょにポキッと折れてきたりします。だから、「折れる=枯れた」と認定して、遠慮なくポキポキすることにしました。
 さらに、ツユクサもすごくて、引っ張ると1メートルくらいのがズルズルズル……っと出てきたりします。花はさけばきれいな青色ですが、繁殖した茎の長さはほぼエイリアンです。しかも途中の節でぽろっとはずれたりするから、根が残るし、感触がなんかほんとに気持ち悪い。
 子どものとき、母親が日曜農家をやっていましたが、ツユクサを目の敵にして撲滅していた理由がやっとわかりました。

 ……まあ、そんなふうに、何日かバリバリズルズルポキポキやって、なんとか目の前にある分はきれいにしました。ツタが絡んでなかったところは葉が残ってはいるのですが、全体にむき出しの部分がほとんどで、なんだか寒々しく痛ましく見えます。

 

 そして、何日かあいだをあけてまたいってみたら、なんか、サツキに緑がふえているような気がします。
 気のせいかと思ったんですが、子細に見てみたら、1ミリくらいの黄緑の点が出ています。どう見ても生えたてほやほやみたいなか細い枝もあったりします。
 どうやら、ツタがなくなって日が当たるようになって、生きている枝が活動再開したようです。

 今はそれから半月くらいたち、枯れた株と生きている株とが、はっきりとわかれました。

 

・◇・◇・◇・

 

 被爆したアオギリが芽を出したとか、自然災害でやられた古木が再び芽吹いたとか、そんな現象がうちひしがれた人間に生きる力を与えた、という話はまゆつばくらいにしか思っていませんでしたが、このサツキの再生を見て、ほんとのことだとわかりました。

 日が当たりさえしたら、生きている限り芽を出す。
 人間も植物も、残されたものをかき集めて、まずはその範囲で生きていく。そして生き抜く力がある。
 という当たり前のことに気がつくきっかけを与えたにちがいないからです。

 そして死んだ枝が芽を出さないのを見て、なくなったものはかえってこないという当たり前のことに、人間は目覚めるのでしょう。

 植物が人間に与えたのはなにかの魔術的な力ではなく、「ものごとの当たり前を認識すること」だったにちがいありません。
 そもそも自分には生き抜く力があるのだ、こんなふうに……と再発見したことが、生きる力を与えられたように感じたのでしょう。

 

 メンタル面における「レジリエンス」が注目された時期がありました。小春日和の日を浴びてなにごともなかったようにしれっと芽吹いているサツキを見ていると、その言葉のほんとうの意味がわかったような気がします。

 それは、

 たとえ痛めつけられていても日が当たれば植物が芽吹くように、あなたにはそもそも逆境を切り抜ける力が備わっています

 ではないでしょうか。

 しかも、なんら特別なことではく、それは生き物として当たり前のこと。
 「レジリエンス」なんてカタカナで書くから、仰々しくてありがたい教えのような気がするだけなんです。
 外来語とカタカナの魔術で、私もすっかりだまされていました。

 レジリエンスの鍛え方や育て方を本で学ぶよりも、生き物がレジリエンスを発揮する現場を目の当たりにするほうが、よほど的確に自分のなかにあるレジリエンスを認識することができると知りました。
 強弱大小の差はあれ、レジリエンスはありとあらゆる生き物に、もちろん己にももれなく備わっていることに気がつく。そして、つねに芽吹きたがっていることを知る。
 鍛えるにしても育てるにしても、まずはそこからのはずです。

 

 だから、野山でふんだんに遊び、土にまみれて生きていた昔のひとは、いまの私たちよりもはるかに強かったと思います。
 なぜなら日々の暮らしのなかで、生きては死に、枯れる生き物の姿を始終目の当たりにできるからです。光を当て、あるいはすこし手あてするだけで、生き物がおのずから元気になる姿を何度でも目撃できるからです。
 あるいは、手をつくしたかいなく命がはてることがあることを、知る機会があるからです。

 目にうつるものは世界の認識の土台となります。
 だから日々、自然の有り様を自分の目のなかにうつす。
 それだけで人間はずいぶんと健全になれるはずです。

 

 


《140字の日記》のマガジンもあります。





#日記 #エッセイ #コラム #ライフスタイル #自然 #メンタル #レジリエンス #枯れる #生きる #心理学 #うつ #芽吹く #田舎 #日常
 
 
 

いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。