「それだけで勝てると思うな」

皆さんこんにちは、Ottyです。

今回はタイトル通り、「それだけで勝てると思うな」がテーマです。

いや、だから何がだよ、と思いますよね。

最近自分の中で当たり前になってしまっていたけど実は意外と才能だったっぽい「語学力」の話です。

今この世の中、バイリンガルは当たり前ですが、
当たり前な世の中になったからこそ、トリリンガルとか、マルチリンガルが死ぬほど役立って目立つ存在になれるのではないでしょうか。

よく言われていたのが

「英語だけ話せるからって勝てると思うな、世の中いくつの言語があると思ってるんだ」

と、いうことで、どこへ飛ばされてもある程度は現地の言語で話せて困らないようにした結果、6か国語を習得し、挨拶と自己紹介であればその他何語でも話せるようにしました。

まぁ言ってしまうとその他に特に何かできるスキルがないからと言ってしまえばそこまでですが。

いまでは要所要所で役に立っているので、まぁこれまでの経験は悪くなかったんじゃないかなと思っています。

めちゃくちゃ長いんですが、私のしょうもない経歴とともに、
良かったら、少しばかりお付き合いください。

なんか今日はやたらとやる気がなくて秋晴れの東京の景色を見下ろしながら、なぜか普段は聞かないONE OK ROCKを聞きながら綴ります。


沁みついて気が付いてなかった僕の特別な「スキル」

最近、親友と渋谷でランチをした帰りに外国人観光客の女性に

「Excuse me~ Can you help me?? I would like to go to Ebisu~~」

と声をかけられました。

聞くと彼女ははじめての日本旅行、東京観光、日本語は「すみません」と「ありがとうございます」しかわからないそうで、成田空港から渋谷まで来たものの、乗り換え方がわからず困っていて私に声をかけたみたいです。

その前にも何人かに声をかけてはいたみたいだったものの、皆英語が話せずで道案内を断られてしまったそうです。可哀想。

少し話していたら、彼女が韓国人だということが分かったので、
私はその後ずっと韓国語で話していました。

ちなみに彼女は年上のユリという女性なので、以降はユリオンニと記載します。

「はじめての日本旅行、言葉もわからず本当に心配だったけど、英語も、しかも韓国語もわかる綺麗な女の子に道案内してもらえて私ほんとにラッキーだわ…」

ユリオンニはそういって嬉しそうにスーツケースを引いて隣を歩いていました。

で、重ねるように

「なんで韓国語も話せるの!すごいね~」

と聞いてくれたのですが、普段からあまりに自然に使いすぎていたので、

あぁ、確かに言われてみればトリリンガルとなるとなんかちょっとすごい感じになるのかな?

と思いました。

よくよく考えてみたら今年に入って4度ほど韓国へ行っていたのですが、同行者の通訳要因にもなっていたし、ソウルから少し離れた韓国語しか通じないような土地でひとりで過ごしていたし、韓国人しかいない中で遊んだり、警察署で書類を作ってもらったり、結構「普通」にしていたけど、確かに韓国語のスキルが上がったなぁとしみじみ思いました。

あ、ちなみにですが英語は普通に話せます。

と言っても、TOEICは700点くらい、英検準1級ほどなので大したスキルではないですが。

前提、家族親戚は純血の日本人家系、父は少しの英語と中国語が話せ、弟はある程度の英語力のみ、祖父が韓国語がほぼネイティブといったところです。それ以外私の家族で語学が堪能なひとはいません。

iPhoneはスマホデビューした中学3年生の終わり頃からずっと英語設定(勿論Siriも)、9月12日現在、37の国と地域を旅してきて、後述にもありますが4つの国で短期留学をしていました。

4歳からバイリンガル、13歳からトリリンガルに

幼少期の話からはじめましょうか、

私はちょっと特殊な家庭環境柄、1~2歳くらいの頃から英語の絵本を読まされてはアウトプットさせられていました。

いわば、「英才教育」ってやつなのかもしれませんが。

そのおかげで幼稚園に入る頃、恐らく4歳くらいには、
身の回りのものを英語で言えるようになったり、英語で簡単な会話は既に話せるようになっていました。

せっかく家族で動物園へ行っても、両親が動物を指さしては「これは英語で〜?」と聞いてきたので、楽しみにしていたプチ旅行も気がついたらただの苦行になっていました。

こうして、小学校以降の英会話の授業は当たり前ですが無双、ただし、文法が壊滅的だったため日本での授業は苦戦するところが多々ありました。

まぁいったん基礎的な英語力が付いて数年が経った中学2年生の春頃、韓国語を話す祖父から韓国語の単語帳をプレゼントしてもらいました。

当時はK-POPの第二世代(KARA、少女時代、BIGBANG、B2ST(1番好きだった)だったので、これでも使って彼らが何言ってるんだか勉強でもしてみなさい、くらいに渡された感じでした。

中二病で尚且ついじめられていた私は、休み時間に廊下に出ると悪口を大声で言われたり、そもそも一緒に過ごす友達もいなかったので、ひとりぽつんと椅子に座ってハングルの勉強をしはじめました。

ハングルはたった24の文字を組み立てて言葉を作るので、
覚えるのにはそう時間はかからず、2週間で習得しました。

それ以降も単語を勉強しては、韓ドラをみたり、K-POPを聞いたりしてあっという間に基本的な韓国語が話せるようになり、人の悪口を韓国語で呟くくらいのスキルはついていました。

中3の夏、部活を引退後、家族で初の韓国旅行へ行きました。

もちろん、誰もハングルは読めないし韓国語も話せないので私が4人分を通訳。

初の韓国、自分の実力を知りヘトヘトになりながらも、家族がなんとか無事に楽しく旅行ができるよう、中3のOttyなりに全力でサポートしてきました。

受験を捨てて行った初めての留学

中学3年生の夏_____

普通の中3生は部活を引退後、すぐに塾に行ったりして志望校合格に向けて勉強を開始します。

が、特段行きたい学校もなく、模試でそこそこの偏差値をとっていた私は

「まぁ、今は行きたい高校はないけど、ちょっと勉強すればどうにか行けるでしょ」

とナメていたのでほぼ勉強もせず過ごしていました。

そんな、世間一般的には「大事な時期」とされる中3の夏、私は両親のごり押しで初めて留学に行くことのなるのです。

行先はオーストラリア、ケアンズ。

インターナショナルスクールではなく、現地の学校でバディとホームステイをして2週間くらい過ごしてこい、と。

こうして、突然南半球にぶん投げられた私は「本場」の英語に触れ爆死することになります。

まず、あまりにもコミュ障陰キャな私は自分の意見が全く言えませんでした。

オージーイングリッシュを聞き取るのにもとても苦労しました。

友達はできたものの、何を話したらいいかわからずずっと困っていました。

今と比べれば(当たり前ですが)全然英語が話せなくて、というより思うように伝わらずそれがストレスだったことは今でも鮮明に覚えています。

でも、ひとりで近所をうろうろしているときに声をかけてくれたひととの会話の内容がサッカーで、好きなものだったので沢山楽しく話せました。

そこで、

「あ、思ったより自分は英語話せるじゃん」

ということに気が付けたので、英語力の問題というよりかはコミュニケーション能力を上げようと、そこからアホみたいに積極的に友達を作り、どんな人とでもとりあえず話すようにしました。

結局12月ごろに滑り込んで決めた校則の緩い、制服の可愛い進学校に合格、受験勉強をしたのはたった2週間ほどだったので、あの夏ひっしこいて塾に引きこもって勉強しなくてよかったなと思いました(尚英語の試験は9割近くとっていたみたいです)。

ドイツ語と歩んだ高校3年間

高校に入学後、カリキュラムのオプションにドイツ語があったので、履修して学んでいました。

別にドイツ語なんてドイツでしか使う用事はないけれど、
当時ドイツサッカーリーグ「ブンデスリーガ」1部のシャルケ04に所属していた内田篤人に憧れて自分もドイツ語を話せるようになりたいという不純な理由で勉強し始めました。

この経験が後ほど本当に内田篤人に会えることに繋がるとは知らずに……

高校1年生の10月、我が家は人生で初めてホストファミリーとしてドイツ人留学生を受け入れました。

そして、交換留学として高校1年生の春休みに今度は私がドイツへ。

そんなにペラペラだったわけではないけれど、
日常生活で困らない程度のコミュニケーションはとれ、無事約2週間ほどのホームステイ生活を終えることができました。

ドイツでは1ビールだけ唯一16歳から飲酒が許可されているアルコールなので、毎日学校からの帰り道にスーパーで買っては飲みながら帰宅したり、金曜日の学校終わりに車を飛ばしてフェンロ(オランダ)へ行ったりするような生意気JKでした。

また、生意気に放課後にシャルケの試合を観にフェルティンス・アリーナへ行ったのは今でもいい思い出です。

内田篤人のユニフォームを着て大きなフラッグを持って行ったおかげで試合では人気者に。

しかも、私の憧れそのものであるうっちーが私の真後ろに座っていました。

距離が近かったので一生懸命「うっちー!」と叫んでいましたが見事にシカトされました

現地ではエミリー、ニコ、フランチェスカ、リンダやデニースなどたくさんの友達ができ、ドイツへ行くたびに彼らと会ってはいまだにビールで乾杯をする仲です。

最近はあまりドイツ語を利用することはなくなったけれど、たまにバーとか旅先でドイツ人と出会うと自己紹介と簡単な会話をするためにはやっぱり使えるので、あの時学んでおいてよかったなと思っています。

こうして数年ドイツ語を学んでいたのにもかかわらず、大学進学に際して学部選びをする選択肢に「ドイツ語」か「フランス語」の2択があり、ドイツ語を選ばず「これからのサッカー界はフランスがアツくなると思う」という謎の理由でフランス語学科に進学しました。

忘れ去られていたサンフランシスコライフ

すっかり忘れていましたが、高校2年生の夏休み、アメリカ・サンフランシスコ州にあるドミニカン大学のサマースクールに行っていました。

普通なら日本で花火大会とか、チャリ2ケツとかのような青春をするものなんでしょうが、私は渡米して1ヶ月近く引きこもって英語漬けでした。

とはいっても、放課後と土日はお休みだったので、メジャーリーグやNBAを観に行ったり、コストコみたいなスーパーでホストマザー(82)と買い物をしたり、ホストマザーの仲間たちと老人会(というなのパーティー)に参加させてもらってそちらでリア充していました。

それもあって老人の英語も聞き取れるようになった私は更に英語力がついたぞ、と自信につながるきっかけになりました。

ちなみに、その留学時代に知り合ったサウジアラビアの石油王サードと、台湾人で航空会社勤務のフェルナンドとは今でも仲良しです。

特にラマダーンの時期、サードをはじめムスリムの生徒は食事ができないので昼間は芝生でダベる日々。

ラマダーン明けは彼らのためにパーティーが開かれ、皆でアラビアンダンスを踊ったり、アラビアンフードを楽しみました(私はスパイスがダメなので食べていませんが)。

サードに関しては最近、アルヒラルのマネージャーを紹介するからサウジで働けば?とか言ってくる、だいぶ違う世界に住んでらっしゃる富裕層で、そのクレイジーっぷりがまた好きです。

最近はアメリカとドーハとドバイを行き来しているみたいで、毎回ファーストクラス、いや貸切ジェットで移動してるストーリーを載せています。

ちなみにこのアメリカ留学、確かに行ってよかったのですが1つだけ大失敗だったのが、ほかの日本人生徒もいる中での参加だったことでした。

私はできるだけ他の国から来た留学生と関わりたいのに、英語が話せないからなのか何なのか、マジでずっと付いてきてた子たちに嫌気がさしていました。

君は何を学びにアメリカへ?

パリジェンヌになりたくて

2022年からパリサンジェルマン(以下PSG)がジャパンツアーで来日して試合をするようになり、日本のサッカー男児の「憧れ」との距離感がもっと近くなりました。

2022年は特に、メッシ、ネイマール、ムバッペはじめ沢山のスター選手が所属するキラキラサッカークラブでリーグアンは注目されるようになりましたが、私はだいぶ前からリーグアンも見ていたため、大学に入る前頃に、

「そろそろえフランスサッカーがアツくなるぞ」

と謎の予想をしていました。

結局いまは少し落ち着いたものの、2016年の自国開催でのEUROは準優勝、2018年のロシアワールドカップ優勝、2020年のFIFAカタールワールドカップは準優勝と、フランスサッカーの強さを見せつけトレンドを作ったことは言うまでもないです。

そういうこともあって、「なんとなく」フランス語学科を選び、4年間第一外国語として新たに学ぶことになりました。

地獄の週8フランス語

今思えばスキルとして身についたので良かったけれど、大学4年間、普通にしんどかったです。

入学して初っ端の授業がもうフランス語。

テキストも日本語でのフォローなしのAmicalとか、毎回配られるプリントに訳のわからない単語がずらり、これを1週間で覚えてこい、とのことで毎週のようにテスト三昧。

1言1句ミスったら0点、発音の仕方まで鬼厳しく、他の授業の単位も死守してなんとかフル単、命懸けでしたが厳しかった分身につくのも早く、すぐに悪口も言えるようになりました。

フランス語学科での生活は本当にフランス語まみれで、ひとつとっても切り口が多すぎて途中で飽きが入りました。

・文法(2コマ)
・会話
・構文
・芸術
・現代社会
・文学
・講読


など。これが全てではありません。

あまりにも多すぎて途中で辞めたくなりました。

なぜかというと、我が学科だけ留年条件が厳しく、遊びたいお年頃の大学生をしていた私からしたらだいぶタイトだったからです。

かといって、やっぱりバイトもしたいし海外で遊びたかった私は家の近くのビジネスホテルでフロントスタッフとしてほぼ毎日働いていました。

今だから言えますが、ビジネスホテルって大体サラリーマンしか使わないので、ほぼフロントには寄りません。

チェックイン、チェックアウトと事務作業以外、ほぼ勉強していてなんとかフル単を死守していました。

また、そのほかの全学部共通科目に関してはすべてAAまたは Aで、1つ Bがあったくらいの優秀っぷりでした。

口語的な日本語は苦手ですが、noteの通り文字を綴ることは得意なためレポート評価の授業しかとらず、その文才を活かして優秀な成績を収めていました。

憧れの超パリピスクールライフ

大学1年生の夏、マルタ共和国に1ヶ月弱留学をしていました。

今ではマルタも有名な国ですが、当時は「どこ?」って言われるような影の薄い国で、皆に心配されていました。

数ある留学先でなぜマルタを選んだのかというと、単に費用が安かったのと、誰も行かなそうだからです。

こうして、皆が部活やらサークルやらで大学生らしいことをしている夏を捨てて私はマルタへと飛び立ちました。

行った先で同時入学したメンバーは各国から集まったパリピ代表の方々でした。

彼らとは今でも連絡を取るだけでなく会う仲で、特にイタリア人のアンドレアや台湾人のペイ、日本人のお姉さんのりほさんは本当に仲良しです。

ちなみに現地での生活はこんな感じ。


8:30 だらだら起きる。料理の腕が素晴らしいホストマザーの朝ごはんとコーヒーで1日を始める
9:00 だらだら準備して家を出る
9:20 海沿いを歩いて15〜20分ほどのビーチで友達と待ち合わせる
12:50 それまでビーチでチル
13:00 そこから歩いて10分ほどのところに学校があったので移動、各自教室へ行って授業を受ける
17:00 授業終了。いつものメンバーと集合し今夜の予定を決める
17:15 大体21:00にクラブ前ね、となって解散。この後私はインスタ映えのためにビーチで写真を撮ったり、モールでショッピングをしたり、ジェラートを食べていた。あとは英語が全くわからない日本人のケイのためにスーパーについて行ってあげたこともあった
18:30 だらだらと帰宅。ホストマザーのタコスとか、シチリアのオリーブとシーフードを使ったパスタで幸せ夜ご飯
19:00 シャワーを浴びて課題を終わらせる
20:30 クラブへ行くため家を出る
21:00 クラブ前に集合
02:30 クラブをハシゴし遊び倒す
03:00 流石に帰宅する



毎日こうでした。楽しかったです。

最初は不安でしかなかった留学生活も、3日でもうやめられんこの生活!!!となりました。

インターナショナルスクールだったため、各国から生徒が集まっていたので彼らの言語が話せると喜ばれました。色んな言語の知識とスキルを持って帰る良い機会にもなりました。

ついでに、オーストラリアで課題になっていたコミュ力も補うことができました

21歳、遠距離恋愛と上海インターン

ここで突然の遠距離恋愛の話になりますが、私は以前2年半ほどお付き合いをしていた元カレとの生活の中に少しだけ「海外遠距離」の機会がありました。

と言っても、期間は全然長くなく数週間くらいの現地の市場調査がメインのプログラムでしたが、私が21歳の誕生日を迎えた日も被っていたので、彼自身はあんまり良いとは思っていなかったみたいです。

彼なりの優しさで、お誕生日当日にお祝いしてあげたかった、とのこと。

ただ、上海でのインターンシップは既にスケジュールが定められており、移動などは不可。

せっかく向こうでの生活費を全額負担してもらえるなら参加したい…と思い、

「ごめんだけど私は世界を見てくる、それが私にとって最大の誕生日プレゼントだと思うから」

と言い捨てて上海へ飛びました。

当時も今みたいにクレイジーなスケジュール下で生きていたので、

バリ島旅行(1週間)→帰国してそのまま小田原インターン(キャンプ)→キャンプ終了後そのまま羽田空港へ→上海インターン

という破天荒なことをしていました。

ちなみに、大学時代に中国語を履修していたので基礎はわかるものの、飛び交う方言にやっぱりわからないや……と自分のスキルのなさに落胆しました。

結局、誕生日は誕生日に過ぎないし、いつ祝われても誕生日だと思っていた私はこの選択をして間違いなかったと思いました。

後ほど彼との関係が悪化したことは言うまでもないですが。

そこで中国語もイケそうだという可能性を感じた私はその後の就活でもエアライン業界に進みたいと思うのでした。

夢のエアライン業界就職とコロナ

まだコロナ前の就活無双期、私は2月の時点で10個の内定を抱えて余裕な気持ちで4月を迎えました。

結局、数ある会社の中から「グランドスタッフ(空港のカウンターでチェックイン業務を行なったり、荷物を預かったり、ボーディングサポートをする業務)」を選んでワクワクした気持ちで入社までの日々を待っていました。

ちなみに決めてはシンプルで、

エアライン業界って制服可愛いし、それだけでモテそうだから

と、それだけ。

結果的に吉と出たので良しとしているし、後々の転職活動で苦労はするがこの選択は間違っていなかったと思っています。

ただ、2020年1月、事態は一変して中国武漢で新型コロナウイルスが発生、ただそんな中でもどうしてもマドリードダービーとメッシが見たいがために強行突破しスペインへ。

帰国した1週間後、追い込むかのように今度はミャンマーへ。

これが私にとってコロナ前最後の海外旅行となりました。

既にアジアをはじめ、各国でコロナが蔓延している中すりぬけて行った海外旅行でしたが、ひとも少なくインスタ映えがしやすかったこと、どのお店も並ばず入れたこと、アジア人差別をされたことは記憶に残っています。

そんな不安な中で無事に入社式を終えた数日後、今度は日本政府から「緊急事態宣言」が発令。

水際なんてもんじゃない、直接ウイルスを喰らう航空業界は大打撃は良いところ、もはや仕事は一切なくなり私も3ヶ月間の完全休業状態になりました。

そして暇なので私は実家へ帰り、Netflixで韓国ドラマを網羅、久しぶりにGossip Girlとか、SUITSを観たり、Switchにのめり込んで過ごしていました。

固定収入のあるニート

というと、トレーダーとか投資家みたいなイメージがあるかと思います(投資家は固定収入じゃないか)。

ところが、働かずに固定で収入を得られる世界線がそこにはありました。

休業で3~4ヶ月間ほぼ仕事をしていない中、業界柄、政府からの支援で給料が100%振り込まれていたのです。

勿論、航空業界なんて給料は高くないからそれまでですが、働かずに収入を得ていました。

ただ、前述のとおり、あまりにも暇すぎたので、その後少しは勉強するかと重い腰を上げて配属された中華系エアラインが復活した時に備えて再び中国語の勉強をはじめました。

そこで、旅行用語、空港で使う中国語と接客会話のスキルを得ました。

漢字は一応読めるので、本などは特に買わず、「音」を大事にする言語のためドラマや動画を見てインプットしていきました。

暇だったので中国人の親友テンセイに電話をして自分の中国語に問題がないか発音チェックもしてもらいました。

結果、ほどほどに通じそうな中国語はできるようになったので、あとは気が向いた時にREDをチェックしたり、中国人がいたら話そうというところに留めました。

結局就航が再開し私もOJTができるようになったのは8月半ば。

いつかの記事にもある通り大失恋をしたおかげでメンタルが終わり、何も食べられなくなり2日で3Kg減、その日空港に出社しカウンターで倒れて救急搬送、6時間後に目が覚めた私は病院のICUにいました。

なので仕事再開も皆より遅れを取ってはしまいましたが、なんとかキャッチアップをしてOJTを終わらせ、独り立ちし月に5日しかない貴重な旅客ハンドリング業務をしていました。

ちなみに現場でも中国語は活かされ、搭乗客もCAも喜んでくれました(やっぱり日本語は難しいし、富裕層メインだったため英語も通じなかった)。

そんな感じで過ごしていましたが、キャリアの停滞を懸念して1年半で退職、現職の某大手IT企業に奇跡的に採用され今はそこで働いていますが、その前に1つ大事なことを記載するのを忘れていました。

22歳、LaLiga1部クラブデビュー

ご存知の通り、社会人1年目の夏に応募したカディスCFの日本公式アンバサダーの返事が予定よりも早く来て、即採用となりました。

採用決定後はリリースに向けて定期的にzoomでミーティングをしていました。

そんな中、カディスCFのマーケティングダイレクターとも話す機会があったので、緊急で簡単なスペイン語を習得。

彼がミーティングにいる時は自己紹介と簡単な雑談くらいはスペイン語を話していました。

結局1部昇格クラブとはいえ、まだまだマイナーであることには変わりないので結局スペイン語メイン+英語で試合や記事を読んで情報を得るしかなかったのです。

しゃあなし、スペイン語も軽く習得するしかなかったので今では記事のざっくりの理解とか、簡単な会話はできるようになっていました。

25年間(もうほぼ26年ですが)を振り返って、改めてアンバサダーへの挑戦は本当にナイスチョイスすぎて、病んでいた当時の私を褒めてあげたいです。

結局、その語学力たちとの今

母国語含めて6か国語かと思って綴っていったら結局7ヶ国語が分かることに気がついたところで、今後はどうしていきたいのかというと、

正直面倒なのでこれ以上は頑張りたくない

という心境です。

でも何かと必要になるフェーズがあるので、維持はしていなきゃな、と思っています。

どういう形かは決めていませんが微々たる感じで外国語に触れていこうと思っています。

今後仕事で必要になりそうな気もするので、その時は必要に応じて必要なだけ補おうと考えています。

結局、前述の通りその後も何かと必要になったり、自分の語学力で誰かを助けることができたりしたこともあったので、このスキルは他の誰にも敵わない強みだと思っています。

最近行ったフィリピンで37の国と地域を旅したことになったのですが、今年中に40カ国を目指したいです(仕事ではなく、プライベートで)。

どうせ、とか言ったらアレですが、どこの国へ行っても言葉に困らないと思うし、なんとかなることは19歳で学んだので、これからも自由にフラっと旅をしたり、誰かを助けられたらなと思っています。

ちなみに今年もしかしたら行く予定がありそうな国は、

・ポルトガル
・オマーン
・モンゴル
・韓国(21回目)
・香港(3回目)
・イングランド(2回目)
・イタリア(2回目)
・サウジアラビア

です。うまく調整してどうにか行きたいです。

最後に持ってくる話ではないけれど

様々な局面で「必要になったから」外国語を習得してきた私が1番使っていてスカッとした場面がありました。

"パリでフランス語の看板を見ながら、英語で電話しながら、日本人の友達と待ち合わせた瞬間"

自分がマルチリンガルだなと一番感じた瞬間でした。

また、免税店でうろうろしていたら店員さんに、

「Hello~~어서 오세요~~有什么我能帮到你的?声かけてくださいネ」

と言われたので、

「Hey~~안녕하세요~~不用了~~ありがと~~」

と切り返して何人かわかんない演技をしたのもスカッとしました。

そんなくだらない話はさておき、
自分の語学力で誰かの助けになったとき、少しの挨拶や自己紹介なら何語でも話せることで事がうまく進んだり、喜んでもらえてすごくうれしいなと思いました。

どうしても英語を介してしまうと相手に思うように伝わらないことがあるし、認識齟齬も生じたりすることがあります。

だからこそ、英語だけじゃない他の言語でもコミュニケーションが取れるアドバンテージかなりでかいよな、と思いました。

また、多言語がわかるようになったおかげで海外の論文や本、webの記事も読めるようになりました。

だからこそより深くサッカーへの理解ができ、更に好きになれたんじゃないかなと思っています。

たまたま今日ちょっと自分の「日本語力」を試されることがありました。

制限時間は1時間、英文記事の日本語要約(字数制限有)と、自分自身のことについてちょっとした文章を書くものでした。

結果、うまくきれいな日本語で要約できたこと、自分の日本語力を評価してもらえたことがとてもうれしかったです。

口語的日本語にはだいぶ難ありですが、これからも様々な言語で世界を動かしていってみたいなぁと思ってきたので、今後ちょっと"新しい形"で自分の力を試してみようかなと思います。

なので皆さんももしよかったら英語以外の新しい言語にもぜひ触れてみてくださいね。

私はできることが少ないので、様々な知識やスキルを培っていくしかないので…

関係ないですが、サッカードイツ代表のハンジフリック監督が解任されましたね。そしてマチくん、代表戦スタメンデビューおめでとう!仕事しながら見る日本代表戦は決して楽しいものではないのではやくもう少し(仕事的な意味で)楽になりたいです。

26歳まであと6日の走り書き。

Ayaka Otty

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