見出し画像

何かを知る前と、何かを知った後と。見える世界はがらりと変わるなぁ。その間に存在する余白。


季節は着実に巡る。
新しい土地に引っ越してきた春。
特別長く続いた今年の夏。
暑さが去り、やってきたのは初めての秋。

前に住んでいた方の暮らしの跡が残る古い家を借りている。
庭にも手触りが残っている。そんな庭にある一番背の高い木、一体あれは何の木なのだろう?とずっと思っていた。

10月に入ったある日、庭で洗濯物を干していたら、ひんやりと冷たい風と一緒に、ふと、あの独特な甘い香りが流れ込んできた。
あれ?この香りは。
「秋のにおいがする」

数日前までは影も形もなかったはずなのに、
あの木に花の蕾がたくさんついている。
「あの匂いはもしかしてここから・・・?」

日増しに香りがつよくなる。
「やっぱり!!」

あぁ、この木は金木犀だったんだ。

大好きな秋の香り。
金木犀の木が我が家の庭にあったなんて。
嬉しいな。

この木が金木犀だと分かってからというもの、蕾のふくらみが大きくなっていくのを毎日眺め、花開くのを今か今かと待っていた。
「ああ、もうすぐ咲くかな金木犀。」

そして満開に咲いたオレンジ色の小さな花びらたち。
眺めているだけで心がほくほくする。
洗濯物干しの時間がより愛おしくなる。
嬉しくて息子たちと金木犀の木の下にシートを広げ日向ぼっこもした。


そんな秋のはじまりの小さな出来事。
最近、文字に興味を持ち出した息子の姿と重なった。

知るまえ、と、知ったあと。

知った後はもう、それは「それ」にしか見えなくて。

暮らしの中で出会う、自分の知っている「それ」を見つけると嬉しくて嬉しくてしかたない。

車が好きな彼は、エレベーターの「R」ボタンをみると、「おくじょう、だね!」と立体駐車場の屋上階を連想するようだ。

「9」を覚えた彼は、食べこぼしたうどんの切れ端が、くるんと丸まって机に落ちたのを見て、「きゅーがあるね!」とこれまた嬉しそうに教えてくれた。

でも、知る前の「なんだろう?」はまた特別なひと時だ。
というか、知る前と知った後、のあいだに存在するあれこれがたまらなく愛おしい。

半年前、公園の看板の「園」という字を「迷路がかいてあるねぇ」と嬉しそうに指さしていた。
暮らしの中に存在するたくさんのまだ知らない文字や数字。
絵や、記号や、はたまた他の、もっともっとユーモアに富んだ、彼にだけに見える「何か」に見えているんだと思う。

金木犀の木が「それ」とは知らず、「何か」だったころの私は、一体何の木だろう?と思いを巡らせていた。
「木の幹が白いから白樺かな?」
「食べられる実のなる木だったらいいな…」
そんな私のつぶやきを聞いて、「バナナの木だよきっと!バナナができると思う」と息子は言っていた。

興味を持つ前に一方的に教えるという行為は、
知るまえ、と知ったあと、の間に起こる
想像すること、創造することを
いとも簡単に奪ってしまう。

これを世間では「余白」とでも呼ぶのかな。

奪われるのはそれだけではない。
自分で見つけちゃった、気付いちゃった!っていう、あの何とも言えない喜びや心が沸き立つ瞬間も。

そう、私がこの木は金木犀だ!と自分で見つけちゃった、気付いちゃった、あの瞬間の喜び。

これからたくさんのことに出会ってゆく、小さな彼らから、奪ってはいけないよな、と肝に銘じる。

この世界に存在する様々な物事と出会い、
意味づけをしてゆくのはそれと出会った彼ら自身でよいと思う。
解釈は無限にあってよいと思う。

知ることは感じることの半分も重要ではない。
感じるが先にあるから知るが豊かになる。

そんなことを感じさせてくれた、
秋のはじまりの小さな出来事。

ちいさな人に、自然に、昨日も今日も教えられてます^^

この記事が参加している募集

#子どもに教えられたこと

32,933件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?