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月に叢雲 花に風

これといって大きなアクシデントのない日が続くと「私の人生がこんなにうまくいくはずがない」という思いが生まれる。
悲観的なのは、夜逃げや破産、一家心中未遂など波乱に満ちた幼児期、少女期を送ってきたせいかもしれない。
決まっていた就職や結婚をやめたり、突然フランス暮らしをしたり、挙句の果てに中年過ぎて離婚するなど自ら選んだ悶着もあるが、大人になってからも「順風満帆」を感じた時期はほとんどない。

離婚して、兄と母の介護が終わって、コロナがすこし落ち着いて、交通事故の手術とリハビリが終わって、お金の後始末がついて、持病や老後の生活問題はあるにせよ、この1年半、私の暮らしはいままでにないほど平穏だ。
まるで私の人生じゃないみたい。

しかし。
だからこそ私は不安になってしまう。
私の人生がこんなにうまくいくはずがない。
私らしくない。

かといって、何が「私らしい」というのかわかりようもないし、探し求める気持ちもない。

そういうマイナス思考がいけないのよと、周囲からは言われる。
そうなのかもしれない。

一昨日、親しい友人の誕生祝の食事をした。
彼女は、私より先に親の介護が始まった。
仕事と介護で心身をすり減らした日々だったと思うが、私同様それも終わり、会社も辞めた。
未婚だが結婚にまつわることについては、本人が話さないので訊かない。
すべてを明かし合ってはいないけれど、彼女には彼女の波乱があったはずだ。

食事の前夜、豊後水道を震源地とする大きな地震があった。
私も彼女も、安否確認を必要とする対象者はいない。
けれども。

ねえ、私たちの生きているうちに、きっと大きなやつ来るよね。
首都直下とか南海トラフとか相模灘のとか。
ねえ、私たちここまで頑張って生きてきて、やっと平穏な日々になったのに、晩年になって大地震が来て瓦礫の下とか避難所で最期を迎えるようになったらつらいよねえ。

現にそういう目に遭っている方々にとっては、なんだか無礼で無情な言葉だけれど、ついついそう言い合ってしまった。

因果応報という言葉は嫌い。
恵はいつも偏っていて、いいことと悪いことは交互にはやってこない。
神さまは平気で絶望へと背中を押し、人はそれを「努力が足りない」だの「弱い」だのと責める。
でも、人生は間尺の合わない不公平で理不尽なものだと思う。
私の母や兄のように。

叶うならば。
このままアクシデントのない晩年を迎えたい。
穏やかな最期がいい。

その一方で、小町のごとき美も才もあらねど、髑髏となりて一人「あなめ、あなめ」と眼窩の薄を嘆くのも私らしいという気がしている。

「看取られて 逝く日のなき身は 春の日の 西行さえも妬ましくあり」


読んでいただきありがとうございますm(__)m