パン抱え眠る
天気のいいお昼、気付かない間に寝てしまっていた。目が覚めるか覚めないかのうつつな状態で、右肩あたりにパンを抱えている事に気づく。なんだそりゃでも寝落ちしたのでそういう奇想天外おきる、うんうん。
邪魔だなあと思いパンを退けようと必死になるが取り除けない。おかしいな、夢の中でない事が明確にわかっている(と思ってる)が、なんか変。バケットほどの長さのパンと格闘後、遂に鷲掴みにし、捕らえた!勢い余って起き上がりそのものに目を向けた。
、、、右腕だった。
よくよく体と頭の感覚を起きてるモードにしてみると、右腕だけ大きく上げてくの字、頭部の下敷きに、ありえない方向で曲がっている。それはもう私自身によって絞殺状態の右腕発見。感覚がゼロで、なんなら二度見したって色もおかしい。そのパンを左手で掴んでみたが、モノを掴んでいるという左手の感覚がとてもリアルにあるのに対し、右手不在、掴まれている感覚が一切ない。あまりに不思議な出来事ゆえ、それを平然とじっくり見つめることさえできた。そのまま左手で形確かめたり振ってみると、プラーンプラーン手首が死体ごとく重力だけで動いた。だけども、ひたすら自分の身体の一部とは考えにくく痛みもなし。かなりしばらくした後に、え、腕やん。。と笑いが出たし、本当にそう言った。
そうこうしてるうち肩あたりから徐々に感覚が戻ってきたが、よくよく考えるとパンが右手に戻る迄はこれだけ鮮明に語れるほど十分な時間があった。
、、、えっ、ヤバないか、と今度はじわじわ焦って来た。
今まで意識した事もなかった癖に、入院中低血圧や低体温が明るみになって、いざ数値で確認すると一生の終わりの様に、少しの事象も大袈裟に。あ、やばいもうあかん、、とか、ほら見てかまってこんなに弱いの私おばさんで、自ら進んで病人を演じる程精神が弱まる。術後は機械に繋がれ自分の心電図呼吸や血圧と睨めっこになるのでそういう事が少しずつ意識に表れていたんだろうか、
麻酔なんか終えると不思議体験、しかしアトラクション感覚で、個人的に死や病が怖いのは痛みを恐れるからという理由以外ない気がした。眠ってそのまま死んでしまっても、自分自身気付かぬうちで、それならそれでしぬのがいーわ〜と思えるわ。(なんかそんな歌あったな。) 無事にパンから体の一部に戻ってきてくれた右腕によって、いつ何時身体とココロが離れていくかわからん危うさに、逆説、わたしゃ生きとるなと感じ、書き残さずにはいられない昼下がりとなった。
そうこうして話少し飛び、思い出してた事がドナーカードについて。
ペルー人のお友達とかと喋ると、臓器提供意思を示したくない人が思っているより多かった。希望を捨てたくないからというのはわからなくもないけど、宗教的な理由と臓器売買の裏手口からくる不信、それとまだ医療に信頼性がない事が大きい理由なのかもとおもえてしまう。まず、葬儀中に目覚めるといったニュースが続けて報道された(!)のが記憶に新しいんですが、、。
火葬前に目覚めるのは確かに末恐ろしいが、はい、死んだーって言うのはどっかの誰かが線引きをしているから言えるんだな。何をもって死んだとするか、決まりで“死ぬ”を先に決めちゃう世界に生きる人間故。元は一緒だった信仰やら自然やら科学という名前どれかをボロ勝ちにしてしまうと、どうも生きづらく死にづらくなる事を念頭におかねば。
信頼できる医師とは?と言う問いで言うと、医学的に正しい処置をするという事と医師を信頼する事は日本より遥かな違いがある。日本の医療や延命の現場を知り、ぺるーでのそれや生命感みたいなんを比較して見るとよくわかる。
しかしよく考えたら、意識のないまま自分の身体を人に預けるという事は中々のおおごとじゃあないですか。でもいざ病院に行ったら、医者や看護師は自分より経験と知識があると当たり前に思いたいから、実は結構恐ろしいことでも多数派に流れるのを許容してしまう。
私も今回、点滴の注射針があまりに入らず、緊張のあまり体が冷えていき、何も言えぬまま看護師のクイ状態になってタライ回しになった(言い方)。 未だに跡残るくらいいくつも穴を開けられたけど、誘導に従うだけだったのら。絶体絶命の時に頑張る事できないタイプだという事を痛感した。恐怖来たら思考停止を進んで選ぶほうが楽です。悪夢で絶体絶命の時もう既に俯瞰できており、「はい、目あけます、今からめぇあけまーす!」って、非常に良いところで目覚める技をかなり小さい時から身につけ、自分の身を守ってきました。(小さい頃から悪夢使いだったのです。)
小動物が恐怖から逃れるために自殺するって言われる例が多々あるけども、そんな感じか? 本能でもデマでも科学的根拠あってもなくても、私にはわかるぞ。
それはもう、恐怖や快楽を司る何かが、どうにか・・なってるんですわ。
根拠も感情も余り言いすぎるのはしんどい。無責任な言葉で綴る方が私なりの真実、また、そうあって欲しいという”希望の数パーセント“でもあるのだにゃ。 なんの話や。
しかしまあ、そうでないと救われない人が、ここに、いる。
因みにクイはモルモットの事でペルーでは食べ物です。
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