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燃える言葉の力 -ドストエフスキーを巡る随想

 
【水曜日は文学の日】
 
 
『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』のドストエフスキーは、文学史上に聳え立つ巨峰であり、今でも様々な意味でアクチュアルな作家の一人でしょう。
 
間違いなく人類の文学史上、トップテンに入ってくる作家であり、好きとか嫌いとかを通り越して、普遍的な重要性を持った作家でもある。
 
過去から現在に至るまで、あまりにも色々な角度から語られているため、とても短い紙幅では、全てを語り切れませんが、今日はこの作家について、思うことをつらねたいと思います。




フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは1821年、ロシアのサンクトペテルブルク生まれ。父親は医師で、工兵学校を卒業も、仕事が合わず作家の道へ。1846年に『貧しい人々』でデビューして激賞されます。

 

ドストエフスキー肖像画


その後、空想的社会主義サークルの一員になったため、1849年に逮捕。恩赦を受けて、1854年までシベリアに流刑になります。
 
1858年にサンクトペテルブルクに戻り、以後は、『罪と罰』、『悪霊』、『白痴』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』のいわゆる五大長編小説を残し、1881年、59歳で死去。
 
生前からトルストイに激賞される等(ドストエフスキーもトルストイを高く評価していました)、巨匠中の巨匠であり、死後も変わらず世界的作家の一人であるのは、先に書いたとおりです。




ドストエフスキーの主題を、一言で物凄く乱暴に言うなら、「貧困と救済」だと思っています。
 
デビュー作から変わらない、貧者への眼差し。お金がないだけでなく、様々な原因で精神的に追い詰められてしまった人々への同情と、彼らを追い込む社会への憤りがどの作品にもこだましている。

それが、現代においても未だアクチュアルなのは、言うまでもありません。




そして、複雑なのは救済の方。『悪霊』の社会主義結社や、『カラマーゾフの兄弟』のキリスト教との絡み等、それはある種のエネルギーの爆発による、破壊、革命に繋がっています。
 
彼の長篇には、悪魔的人物が出てきます。その人物は、賭博、飲酒、放蕩といった、規範を外れたエネルギーを有している。

そのエネルギーが、物語が進むにつれて徐々に高まって、大爆発を迎える。
 
その後に、ほんの少しの穏やかな凪の状態が訪れます。それが、微かな「救済」を匂わせて終わるのです。




では、その高まりは何に因っているかというと、妄想の言葉です。モノローグであれ、ダイアローグであれ、生き生きとした物凄い長さの妄想が、全編を覆い尽くします。
 
そこで述べられているのは、神学的な会話や、革命への幻想、賭博や嫉妬、性の妄執等。言葉を連ねるに従って、まるで、その言葉自身によって、登場人物が袋小路に追いつめられていくかのようです。




そこには、ドストエフスキー自身の体験が反映されているのも、よく言われるところ。
 
先に述べた逮捕の際、ドストエフスキーは死刑の宣告を受けています。そして、銃殺刑が執行されるまさにその瞬間に、皇帝の恩赦によって取り消され、流刑になりました。
 
勿論、これは官憲がサディスティックに予め仕組んだものだったわけですが、あと少しで死ぬ、という体験は、彼に深刻な影響を与えました。
 
一秒後、あの引き金がひかれたら、自分は死ぬ。もう終わりなのだ。頭の中をぐるぐると様々な言葉が飛び交う。その身を焼き尽くすような灼熱の言葉。自分の死に向かって高まっていく熱。
 
そうした熱が、彼の長篇を推進する力となっているように思えます。


若い頃のドストエフスキー




そして、全てを焼き尽くすその熱は、時代状況ともリンクするものでした。
 
『悪霊』にもある無政府主義や虚無主義は、やがてテロリズムへと結びつきます。ドストエフスキーの死の同年に皇帝アレクサンドル二世は暗殺され、ロシアのロマノフ王朝は崩壊へと向かいます。




こうした諸々の彼の特徴が、一番分かりやすく小説に落とし込められたのが、『罪と罰』でしょう。
 
自分は優秀だから殺人が許されるという妄想に取り憑かれて殺人をしたラスコーリニコフ。この作品の特徴は、彼が追い詰められていくさまが延々と続くことです。
 
予審判事ポルフィーリーの尋問、つまり対決の部分は、探偵小説の推理合戦のような、強烈な熱量とおどろおどろしさをもって、読者をラスコーリニコフの立場へとひきずりこみます。
 
大衆小説的な面白さがあり、殺人者の脳内を覗き込みつつ、主人公が捕まるのかどうか、という興味で一気に読ませます。そして、無垢な娼婦ソーニャの造形や、あのラストまで、彼の代表作と呼ぶにふさわしい普遍性があります。


ニコライ・カラジン『罪と罰』挿絵




では、現在私にとってのドストエフスキーはどういう作家かというと、間違いなく偉大な作家だけど、どうにも手が伸びない作家でもあります。
 
何というか、彼の作品の熱量は、極限状態に追い詰められた人間の妄執によるものであって、少なくとも私にとっては、定期的に味わいたいものでは、決してない。
 
勿論それはドストエフスキーの落ち度ではなく、多分に私はオプティミスティックな人間なのでしょう。
 
その意味では、ドストエフスキーは、実は「青春の作家」と言えるかもしれません。若い時にこそ、人間の極限状態や深淵を知ることが、世界観の広がりと人間としての深みを与えてくれるからです。





そんな私が、ドストエフスキーの作品の中で一番好きなのは、『カラマーゾフの兄弟』の初めの方の第五編『プロとコントラ』の第三章『兄弟の接近』と第四章『叛逆』です。

 



カラマーゾフ家の次男で、知的で虚無的なイワンと、三男で無垢な修道僧アリョーシャが、料理屋で会話するだけの場面。
 
互いの近況報告から、やがてスムーズに宗教の話題へと移る。イワンが神の世界を承認しないわけを語る、人間の残酷さの例は、今もなお真に迫ってきます。
 
そして、そういう話題が、お互いを信頼している兄弟の、四方山話のやり取りの中で現れるのが、とても好きなのです。




この後に有名な『大審問官』の章、つまり、「キリストが今蘇ったら処刑されるだろう」という、イワンの創作が出てくるのですが、そこでは審問官一人の言葉だけなので、どこか閉じた印象を覚えます。
 
会話をすることで、妄執の熱が解放される。会話の内容は深刻なのに、どこか爽やかで哀愁を帯びた風が吹いていて、心地よい。
 
それはつまり、二人の兄弟の信頼と愛情が滲み出ているからであり、それらは、ドストエフスキーの作品にも通底してあるもののように、今は感じるのです。




私自身は、短編を含めた彼の作品を全て読んだわけではなく、膨大な『作家の日記』も、中学生くらいの時にちょっと読んで、内容をほぼ忘れています。
 
そういう人間なので、ドストエフスキー作品と波長の合う人間ではないし、読んで人生を狂わされたわけではないです。
 
しかし、それでも、自分独自の好きな箇所があり、忘れられない感触を残すからこそ、古典だと言えるのでしょう。
 
古典作品は多様な読解を許す、強大なパワーを持っています。是非、先入観にとらわれずに読んでみて、自分の好きな部分を見つけていただければ。それはきっと、読んだ人の人生を豊かにすると思っています。

 


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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