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組織の「魔物」とリーダーシップ
大きな企業の変革が困難な理由。
ひとが集まれば集まるほど恐れの澱がその組織の中に溜まり、やがて人格を持ち始める。
例えば、2~3人なら開示しあって澱にせずにすむ恐れが、ひとが増えるほどに「『誰か』が『何か』不満を言うといけない」「『もし』、『何か』起きたら大変だから」と架空の恐れの澱がどんどん溜まる。
それら恐れの対応策を作り、仕組み化するのは良いが、こまめにアップデートせずにいると、やがて
江ノ島にてふと思ったこと。
江ノ島が見える海岸で、久しぶりに体を弛緩。
海のそばに住むようになり、気軽に海に遊びに来るカジュアルだけどお洒落な服に身包んだ若い女の子をよく見かける。
私は、彼女らの内的心理状況に思いを馳せる。
彼女らは、若い頃のテーマである「自分ってなんだろう」を映し出す鏡として無意識に海を使う。
海を通して自分を見る。
海に映える自分を引き出す。
海に応える自分を探す。
コットンのロングドレスや、短パ
この記事にピンときた人はそういう役割の人
結局、思ったとおりの人生が出来上がる。
諦めたら諦めた未来が叶い、希望を持てば希望した未来がそのまま叶う。
しかし、本気で希望を信じ込めるひとは、この世にそんなに存在しないもの。
だからこそ、信じ込める側に回るのよ、なにが起きても、希望を見つめ続ける、と決めるのよ。
世界を希望で満たすために。その役割を、引き受けるのよ。
さあ、一緒に。
(大先輩から頂いた言葉)
いつも私たちは願いを叶えている
自分の無意識領域によくよく耳を澄ませながら、生々しく人生を生きているとね、ひとっていつでも自分の内なるビジョン(未来イメージ・願い・予測)を完璧に再生して現実を創っていることに気が付きます。
簡単にいうと、いつも私たちは願いを叶えている。
なのになぜ、まるで理不尽で不本意なことが起きたかのように感じるかというと、自分の無意識領域と、それが描いているビジョンに対して、あまりに無頓着すぎるから。
人生は2重構造 その2
以前も書いたように、この世は2重構造なのですが、どの表現なら、あなたはピンとくるでしょうか。
・「事象」と「本質」
・「doing」と「being」
・「目に見えるもの」と「見えないもの」
・「起きていること」と「流れ」
・「現れているもの」と「そこにある世界観」
・「物質(性)」と「精神性(スピリチャル)」
・「知覚、思考、感情」と「その底に流れているもの」
・「この世」と「あの
社会改革と「怒り」について
何か世の中に不満があるなら、疑問があるなら、そして、それを「本当に」なんとかしたいと思っているなら、決して、怒りから動いてはいけません。
怒りは今の現状を必ず加速させてしまう。
怒りは同じ土俵にあがってしまう。
そして、怒りは、老獪で狡猾な存在に、まんまと利用されてしまう。あなたは、わざと怒らされているのかもしれない。
義憤とは、とても危険なものなのです。
賢く動くなら、内側に湧き立つ怒
「被害者・加害者・仲介者」劇場
「被害者・加害者・仲介者」劇場というものがあります。
被害者ロールセリフの例)「〜された」「〜してくれなかった」
加害者ロールセリフの例)「〜してしまった」「わたしのせいで」
仲介者ロールセリフの例)「助けてあげる」「守ってあげる」「私が何とかしてあげる」
これらは、決して悪いことではありませんが、これらのロールを引き受けて「我を見失う」と、見事に自分劇場は他者の自分劇場と絡んで「人生劇場」が
葛藤は「向き合う」ものではなくて…
最近、体感的に掴みかけているのは、
「葛藤と向き合う」じゃなくて「葛藤と馴染む」って感覚です。
すると、自分劇場も消え、身体的・感情的苦しみも緩み、知らなかった世界が立ち現れる感じ。…すごく興味深い。
先日とあるご縁があり、厳しい環境の大自然の中に入ってみて偶然発見した体感覚なのですが、もしや、これがいわゆるサレンダーってことかな。
日常に応用できる気がして、日々の小さな葛藤を感じた時、ちょ
感受性は快だけ伸ばせない
年末年始、1月上旬ごろまでいろいろと葛藤が続いて、眠れぬ夜や、抱え切れぬ情動に対応していたけれど(外で起きてることは、命を取られるほど大したことではないけど内側への刺激が大きかった)、
その後は、まるでつきものが落ちたみたいに、毎朝、「あー、幸せだなあ」と言いながらカーテンの隙間からこぼれる朝日の中で目覚め、眠るときは、「色々今日もありがたかったねえ、感謝だなあ」って言いながら電気毛布でぬくぬく