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感受性は快だけ伸ばせない

年末年始、1月上旬ごろまでいろいろと葛藤が続いて、眠れぬ夜や、抱え切れぬ情動に対応していたけれど(外で起きてることは、命を取られるほど大したことではないけど内側への刺激が大きかった)、


その後は、まるでつきものが落ちたみたいに、毎朝、「あー、幸せだなあ」と言いながらカーテンの隙間からこぼれる朝日の中で目覚め、眠るときは、「色々今日もありがたかったねえ、感謝だなあ」って言いながら電気毛布でぬくぬくに温めておいたお布団にもぐって眠っています(外で起きていることとは、その葛藤期にも存在していたささやかな喜びがやはり変わらずそこに満ちていただけなのですが)。

思えば、この至福感もいまに始まったことではなく、年中よく感じているし、一方で、葛藤も訪れた時は全身で感じて苦しみます。

感受性は快だけ伸ばせないもの。
感受性が高ければ、快も不快も両方強く味わうし、そうでなければ、両方鈍感になる。

感受性が強くて繊細な我が身と、活発で情熱のある性分を持て余し、自分の情熱で身体を壊すのを恐れて情動のコントロールをたくさんトレーニングしてきたけれど、葛藤も至福も、訪れたなら、ただそれに馴染んで肉体を通過させてゆくことが、実は命を味わい尽くしているということなのかもしれないということを、徐々に受け入れつつある気がします。


命を大切にするということは、命を燃やすということ。
私を生きる、あなたと生きる。

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